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【小説】 序曲

 


 見上げた先にある朱塗りの鳥居を一瞥すると、その前に厳然と立ちはだかっている急勾配の石段へと私は右脚をかけた。
 一体何段くらいあるのだろう。登り始めてすぐにそんな疑問が頭の中を掠めたが、小さく首を振ってただ意識を己が両の太腿へ戻した。疑問に思ったところで仕方のないことだ。兎にも角にも、ダラダラと上方へと続くこの石段を自分は登っていかなければならない。誰も私を背中に背負っていってなどくれないのだ。一段、二段と直向きに腿を持ち上げ持ち上げ、私は「愚直」という二字だけを引き連れて進んでいった。
 両脇に鬱蒼と広がる雑木林のそこここから、ひぐらしの恨めしい鳴き声が断続的に聞こえてくる。真夏の午後の只中にあって、夕暮れ時が近づいて来る気配をいやが応でも感じずにはいられない。何だか"彼ら"に急かされているみたいで、胸の内が淡く波立つ。そのうち背中を一筋の汗がツツッと伝って流れていった。まるで虫が這っていったみたいではなはだ気色が悪かった。
 大袈裟に溜息ひとつ吐いてから、もたげていた頭を上げてみた。
 逆光の中に線の細い背中が浮かんだ。だいぶ差を付けられてしまっていることに気が付いた私は、悔し紛れにそのか細い背中に向かって声を掛けた。
「なぁ、ハイペエスで行くのは良いが、きっと後々に響くぜ。たしかあの上の鳥居から、あと三十分近くは歩くんだろう?なら配分ってものを、もうちょっと考えた方が──」
 しゃべっていて虚しくなる一方だった。日が暮れてしまって困るのは間違いなく私の方なのだから。「君がもっとペエスを上げなけりゃならんのだ」と背中は暗に私を諭しながら、しかし実際に返ってきた声は鷹揚おうようなものだったからたまれなくなる。
「なに、ご心配には及ばないよ。日課の散歩がこういう時に多少は功を奏すのさ。今日は君が主役なんだから、僕に構わずに先に行ってくれたまえ。僕なんかよりもずっと君の方が体力的に優勢なんだ。常日頃から方々を訪ねて歩き回っているんだから、それが既に鍛錬になっているはずさ。この間の感冒ももうとっくに良くなっているはずだろう?」
 一聞するとえらく我が身を称賛されたような気分にもなる内容であるが、もしも誰かが私たちの間に立ってこのやり取りを見聞きしていたとしたら、これが間違ってもそのような生やさしい類のものではないことがさぞや一目瞭然だったことだろう。
 私は太っている。それも酷く。縦にも横にもデカイのだ。因みに昔馴染みの周囲の者たちからは「ざんぎり頭の武蔵坊」などと渾名されて良く笑われている。誰も彼もが腹を空かしている昨今、「この困窮の時代にどうしてそこまでお前は太っていられる?」と真顔で詰め寄ってくる者まで現れる始末だ。
 そんなこと、こっちが教えて欲しい。
 図体の馬鹿でかさは幼少の頃からのことであるし、もっと言えばオギャアと生まれ出てきた時から既に岩のように大きくて、産んだ当の本人の母親などは「あたしを殺す気か」と怒鳴りながら私を出産したのだと、それこそ耳にタコができるほど愚痴っていたものだ。むしろ常日頃から愚痴ってばかりだった母親も先の大空襲で逝ってしまった。最期の最期まで何かに対して悪態を吐いていたと復員した後に親戚から聞かされた時は、不思議と悲しさを通り越して笑いが生まれたものだ。
 閑話休題。
 別に頼んで大きくしてもらったわけでもないのに、妙な罪悪感を抱えた少年は体格に似合わずに繊細な神経を持って成長していった。運だけは人一倍あったようで、戦地で敵の凶弾に倒れることなく生きのびて再び祖国の土を踏みしめ踏みしめ、こうして今、私はせっせと石段を登っている。
 胸に下げたるは名誉の勲章ならぬ、これまた無用の長物であるところの──。
「ほら、君のその位置からレンズを覗いて見たまえよ。きっとすこぶる上出来なアングルで鳥居が写るだろうから。今年こそは写真集を出版するんだろう?ならば一心不乱に撮ることさ。口より先に指を動かす。成功への近道はその一本のみなのだから」
 彼にそう説教を垂れられて、思わず私は胸からブラリと下がっているカメラのレンズに指を添わせた。
 ご名答。私は写真家だ。
 いや、未だ一冊の写真集も出せていない事実を顧みれば「写真家」などと名乗ることすら本来は恥ずべき行為だろう。しかしまぁこれも強運の成せる業なのだろうが、戦前に趣味で撮り貯めていた写真の数々がひょんなことから某大御所写真家の目に止まり、挙句にそれが出版社へと渡り、現在は担当編集者まで付いてデビュー作の準備が着々と進んでいる。
 情緒もへったくれもなくかい摘んで述べてしまえば、そのような状況の只中に私は現在放り込まれている。
「ここまでくればもう立派な写真家だ」
とは、件の某大御所先生の言であるが、それを鵜呑みにして浮かれ散らすほど私も馬鹿者ではない。
 石段の上段から私のことを見下ろし、むしろ半ば見下したように冷ややかな笑みを浮かべてさえいる彼を私はまじまじと見返した。こういう冷淡な友人が身近にいるからこそ、私自身変に浮かれることなく淡々と作品作りに勤しむことができるのだろう。今のように甚だしく腹は立つが、利点もあるから甘んじて彼の皮肉の雨を頭から受けている。
 しかし、やられっぱなしも癪に障るというものだ。
「君もかつてはそうやって、一心不乱に鍵盤を叩いたわけか」
 私の放った矢を受けたのか弾いたのかは分からないが、彼の顔から見る見るうちに冷笑が消えていくのが手に取るように分かった。
「──くだらん無駄話などしていると日が暮れてしまうよ。これは君のための道行なんだからね」
 怒ったような口調で吐いて捨てるようにそう言い放った彼は、前方に向き直りそそくさと登っていってしまった。
 地雷を踏んでしまったのだろう、私は。
 手負いの熊のように力無く肩を落としながら、再び私も無言になって急勾配なその石段を粛々と登っていった。
 慰めるように鳴くひぐらしの声が、胸に背中に突き刺さって痛かった。

* * *

 彼──すめらぎ与一よいちの経歴を、実は私はほとんど知らない。それは「全く知らないのだ」と言ってしまっても間違いではないのかもしれない。出会って半年。その半年を通して彼とのささやかな会話の中で知ったことが、私にとっての"皇与一像"を形作るものの全てであった。
 職業、私立探偵。東京は高田馬場に事務所を構えている。年齢、三十五歳。独身。以上。
 では、皇との出会いの場面はいかなるものであったか。
 そんな風に仰々しく物語を始められるような劇的なものなど何もなく、それは酷く無味乾燥としたものだった。半年前に出入りするようになった例の出版社──社名を『創幻社そうげんしゃ』という──から初めて仕事の依頼を受けた私は編集者と共に高田馬場へと向かった。事前に打ち合わせた内容によると、「戦後十年、未だ世に蔓延る暗い世相を吹き飛ばすような輝ける成功者」に迫るインタビュウ記事の第五弾が『私立探偵』であり、その近影を私に撮影してもらいたい、とのことだった。写真集出版の企画を抱えているとは言え、未だ親戚の庭師の手伝いで糊口を凌いでいた私にとっては、好きなカメラを使えてそのうえ給金も貰えるなどと言う話はこれ以上ないほどの好条件だ。二つ返事で了承した私は、勇み足で高田馬場へといそいそと向かったのだった。
 しかし頭の片隅には、酷く冷めた自分もいて、「今日日、私立探偵などに依頼するような酔狂な者などいるのだろうか。事件事故は警察の仕事だろうに」などと真っ当な疑問を呈していた。加えて「第五弾にして既にネタ切れなのだろう」とまで悪態をつく始末。
 まぁ正直に白状して仕舞えば「探偵」などと言う妙な職業に就き、しかも周囲からは"成功者"の烙印を押され、また羨望の眼差しを向けられるような人物に多分に興味を覚えていたのだった。

「生きることに精一杯な民衆の目には決して触れられることのない類の人種が、この国には実は大勢いるのですよ。先の戦火の只中では純朴な市民たちを盾にすることによって、彼らは擦り傷ひとつ負うこともなく生き延びた。勿論、そんなことが出来たのも運が良かったからなんかじゃない。金を持っていたからだ。腐るほどの金をね。大金が集まるところには人やモノや有象無象もまた吸い寄せられるように集まってくるものです。すると決まって起こるのが、そう、『悲劇』に似た『喜劇』ですよ。僕は『喜劇』を分かりやすく解説して金持ちの前で披露する道化。一人芝居専門の喜劇役者ってところです。金持ちどもにとってはそんな余興が堪らなく面白いらしい。つくづく見下げ果てた連中です。下衆の極みだ。そんな下衆を商売相手にしているのが『探偵』って職業です。勿論、彼らからたんまりと報酬を頂くことが第一義であることは言うまでもありません。まぁ、これはあくまでも僕の自論ですが──。今僕が話したことは全て記事にして載せてください。彼らはそんな風に罵られることすら、最高の余興と捉える人種でもありましてね」

 聞き取り取材の開始早々雑居ビルの窓から見える駅前の風景を眺めながら、そんな独特過ぎる"自論"をのべつ幕無しに展開した私立探偵は、そこでふと口を噤んでその視線を私たちの方へと向けた。正確に言えば私の方へと焦点を絞って。その焦点が私のこの容姿へと吸い寄せられていることが分かり、咄嗟に探偵から目を逸らしてしまっていた。
「ざんぎり頭の武蔵坊」
 軍隊時代にそう渾名され、小馬鹿にされたことが思い出されて居た堪れなくなったのだ。
 対する皇与一は見るからに育ちの良さそうな、色白で細もてな顔立ちだった。髪は七三分けに綺麗に整えられ、鼻の上にちょこんとのせられた小ぶりな丸眼鏡が理知的な印象を効果的に与えている。隙がないのだ。
 ──誰かに似ている。
 しかしその"誰か"がなかなか出てこない。有名であるはずの、そして何度も目にしたことのあるはずのその"誰か"のことに想いを馳せていた私は、だから皇に話しかけられたことに全く気がつかないでいた。傍らの記者に肘で突かれて初めて我に返ったのだった。
 素っ頓狂な声をあげて、私は再び皇のあの射るような視線に相対した。
宇賀神うがじんさん、でしたね。貴方は創幻社さんの専属カメラマンなのですか?」
 唐突な問いかけに私がしどもどと答えあぐねているのを見兼ねて、記者が手短に私の略歴と同席している理由を伝えてくれた。
「ほう、写真家さん。是非とも今度お作を拝見させて頂きたいですね。どういった類いの写真を撮られるので?」
 これについては、もはや私が答えるしかない。照れとも何とも言われようのない感情を覚えながら、ボソボソと不明瞭な声量で返答した。
「神社仏閣を、光量を絞って、撮っています。その、暗くて、重い、あの"場"の空気が表現できたらと。子供の頃から大きな神社が遊び場だったので。好きなんです、そういう場所が。ええと、何というか、神が印画紙に宿る、と言うか。神秘性を焼き付ける、などと豪語しており、はい」
 そんなおよそ答えになっていないような私の返しに、しかし質問者は満足そうに頷いていた。
「それが貴方の写真というものへの"自論"な訳ですね。素晴らしい。ええと、見ざる、聞かざる、言わざる──」
 思わずハッとして私が顔を硬直させると、皇は微笑みながら、
「宇賀神さん、貴方、ご出身は栃木ですね?」
 驚きを隠せずに私は首を縦に振っていた。
「そ、そうです。けれどどうして──?」
 皇は不敵な笑みを浮かべて、私と、それから記者の顔を交互に見遣った後で言った。
「こういった余興をね、日常に飽き飽きした金持ちたちは喜ぶんですよ」
 記者が手に持った手帳に何かを瞬時に走り書きした。
「お見事!これぞ名探偵の名推理、ですな!して、今の手品のタネは一体どういう?」
 応接ソファにゆったりと座っている探偵はそこで長い足を組み直し、
「知ってしまっては、分かってしまっては、途端に退屈になってしまうものですよ。世の中なんてものは」
 キザな男だ。芝居掛かった探偵のそんな所作に、私は悪寒を感じて奥歯を噛み締めた。
 けれどここに至るまで一貫して余裕な態度を崩さなかった皇与一という男が、記者からの次のような質問で態度を一変させたことを未だに私は忘れられずにいる。
「ちょっと事前に皇さんのことを調べさせていただいたのですが、なんでも元々は音楽家を志しておられたとか。それがどうしてまた『私立探偵』という稀有なご職業に就かれたので?」
 ほんの一瞬、皇は両手に嵌めた高級そうな白い手袋の、その左手へと視線を向けた。しかしすぐに正反対の右側へ顔を背ける。私は彼の左手から目が逸らせなくなってしまった。
 すぐに感じた違和感。これは──。
「戦争のせいですよ。貴方、戦中はどちらの方面へ?」
 皇の声で意識を引き戻された私は、咄嗟に彼の顔を見遣った。
 神経質そうな男の顔がそこにあった。どこかしら、悲壮感すら漂っている。『戦争のせい』と口にした彼の強張った声音がそう思わせたのだろうか。
 ──あぁ、分かった。
 そのとき、私は内心でひとつ呟いた。
 この探偵は一体誰に似ているのか。
 頭の中に浮かんだある人物の肖像画。それは子供の頃、音楽で教わった作曲家のものだった。
 神経質そうな眼鏡の男。年齢はまだ若く、その肖像画の姿そのままを保って早逝した作曲家。
 ──丸眼鏡の、滝廉太郎だ。

 滝廉太郎に似た、かつて音楽家を目指していたという私立探偵は、その後言葉巧みに会話の主導権を握り、自身の語りたくない部分を上手く回避して無難に取材を終わらせた。近影を撮影するまでの間、私は探偵の話術にばかり気を取られてしまっていたのだった。
 その場で最も神経質であったのは、つまりは私という人間だった。

* * *

「実際に目の当たりにしてもらってからと思って君には事前に伝えていなかったのだけどね、鳥居から件の館までのこの道のりは、ある神社の参道を模して造成されたのだそうだ。どこだかわかるかい?宇賀神君」
 石段から恐らくは二十分は歩いてきたところで、それまで無言で私の前を進んでいた皇がその肩越しに話しかけてきた。幾分か慌てて「いや」と短く返答した私に、皇はその場に立ち止まって説明し始めた。緩やかな上り坂の途中、道の両脇には杉並木が続いている。


「元々ここには杉の木はなかったとのことでね、この広大な土地を手に入れた例の大富豪が他所から運ばせて一本一本丁寧に植えさせたんだ」
「冗談だろう?一体何本あるんだ。百本じゃきかないぜ」
「そんなことができるのが、"彼ら"なのさ。彼らはその莫大な財力でもってこの国を陰で操っている。今この瞬間もね。それはさておき、この杉並木の意匠さ。ここは信州の戸隠神社を模して造られたそうだ。ご存じの通り戸隠神社は宝光社、火之御子社、中社、九頭龍社、奥社の五社からなる。その最奥の奥社がここのモデルさ。本当の奥社参道杉並木は樹齢四百年の大木だが、さすがにそれは再現できなかったようだね」
 私もつられて周囲の杉並木を眺めた。それでも十メートル級の高さの無数の杉が堂々と屹立している様は圧巻の一言だ。これが自然ではなく人工的に造成されたものだとは。金に糸目をつけなければ出来ないことなど何もない、という訳だ。
 同じように辺りを見渡していた皇と不意に視線が交差した。意を決して私は口を開いた。
「さっきは悪かった。大人気なくムキになってデリカシイの無い発言をしてしまったよ。すまない・・・・・・」
 皇は私の目を真正面から見た後で、自身の左手に視軸を移していった。いつものように純白の手袋を嵌めている。出会って間もない頃には決して知り得なかったこと。半年という月日を経た今、私はそれを知っている。
 皇の左手は薬指と小指だけを残して、それ以外の部分を全て欠損させていた。
 彼曰く、戦地で銃を構えた敵兵から至近距離で発砲され、咄嗟に顔を庇った腕の先端に付く左手のひらでもろにその銃弾を受けたのだそうだ。当然その銃弾を手のひらで受け止められるはずもなく、凶弾は木っ端微塵に皇の左手指を削ぎ落とし、南国のジャングルの奥へと消えていった。
 その出来事がもたらした結果。
 彼は鍵盤を両手で弾けなくなった。それはそのまま音楽家の道が断たれた、ということであった。鍵盤に両の手を触れさせなければ彼は作曲が出来ないのだそうで、机上には決して"音"は降りてきてはくれないのだ、と後に私に話して聞かせてくれた。
 今はもう決して戻ることの出来ない皇の過去を知っていての、先ほどの負け惜しみである。軽口の冗談になってなどいなかったのだ。

「──気にしていないよ。さぁ、館まではあと少しだ。この分だとちょうど夕焼けを背景に素敵な画面で最高の一枚が撮れるはずだ」
 そう言って皇はさっさと歩き出してしまった。その表情はもはや垣間見ることはできない。私は内心でもう一度頭を下げた。

 作品集の最後を飾る写真を模索して二ヶ月余り。とうとうニッチもさっちも行かなくなってしまった私は夏風邪を拗らせて寝込んでしまった。新宿のむさ苦しい下宿先へと見舞いに来てくれた皇が、色褪せた畳に胡座をかくなり、
「創幻社の中林君から聞いたよ。最後のピースが見つからないんだって?身体まで壊すほどに悩んでも湧いてこないとは、よっぽど苦心しているんだね。参考になるかどうか分からんが、僕がこれまで生きてきた中で最も心を揺さぶられた景色があるんだが、どうかな。宇賀神君の具合が回復したらそこへ行ってみないか?僕もおおよそ十年ぶりに目にすることになるのだが」

 そうして連れて来られたのが、今はもう住む者が居なくなってしまったという、とある富豪が所有する邸宅だった。しかしこの邸宅は広大な敷地の最奥にあるそうで、片道三十分以上をかけてこうして男二人、えっちらおっちらと向かっているのだ。
「宇賀神君、あれだ。あの葛折りの石段を登り切ったところに館があるんだ。事前にあの富豪に確認は取ってある。管理は全くされていないから荒れ放題だろうとのことだけれど、一応十年前のまま館はそこに建っている」
 あとはまた無言で石段を登り続けた。先程と違うのは葛折りだったところで、視点が良い頃合いに右に左に変化するので飽きることなく進んでいけた。そうして気がつけば最後の段々へと足を乗せていた。
 登るにつれて徐々に視界が開けてくる。夕焼けの橙色が目に眩しい。
 やがて逆光の中に硬質な人工物が、建築物の外壁が見えてきた。残る数段を私は駆け足で登っていった。
「ここだ!確かに、この館を僕はかつて夕焼けの中で見たんだ!正にこの景色だよ。宇賀神君、シャッタアチャンスだよ!見たまえ、ここが櫛名田くしなだ男爵邸・本館だ」
 初めて聞く、皇与一の高揚した声音だった。この山奥の洋館に一体いかなる思い入れがあるのだろう。十年前に、一体ここで彼は何を──。
 そんなことを考えながらも、私はとにかく夢中でカメラのシャッタアを切った。皇が興奮するのも無理はない。夕映の中のその洋館はとても美しかったのだから。


 ──うん?今のは・・・・・・。

 初めは鳥の鳴き声だと思った。
 澄んだ綺麗な高音が一瞬の間に聞こえた気がしたのだ。
「なんだ?」
 レンズを覗き込む私の傍らで、皇の怪訝そうな声を聞いた時、私は先ほどの音が自分の幻聴などではないことを知った。
 ──ポロン。
 今度は確かに聞こえた。
 これは確か──。
 ──ポロロロン。
 皇が呟いた。
「これはピアノの音だ。誰かがピアノの鍵盤を弾いているんだ。あの館の中で──」
 長らく触れられていなかった鍵盤の状態を確かめるかのように、しばらくポロポロと鳴らしていた"誰か"が、その確認を終えた時──。
 遂にそれは正確に譜面をなぞる音の連なりとなって私たちの元へと運ばれたきた。音楽に無知な私には、それが一体誰の作による何という題名の曲なのか分からない。ふと傍らの皇の横顔を見て、私は背筋が凍る想いを感じた。
 夕焼けを浴びて橙色に染まっているはずの彼の頬が、その肌の色が、まるで屍人のように血の気が引いて真っ青になっていた。
「モーツァルトの『魔笛』、その序曲。そんな、そんなはずは──彼女はもう、この世には」
 幽鬼のような皇の挙動を知る由もなく、鍵盤を弾く速度は徐々に速くなっていき、その曲調の明るさ、爽快さが逆に得体の知れない不吉さを伴って私の耳にも流れ込んできた。

 血のような夕日の橙に染まる櫛名田男爵邸・本館。死者の弾く『魔笛』に誘われて今、皇与一の『悲劇』の記憶が一つ、また一つと呼び起こされてゆく──。




プロローグ書き逃げ案件。

こんにちは、蒼海宙人おうみそらひとです。
前々からやってみたいなーと思っていた企画が、↑これです。
全力で、今持てる技術の全てを物語のプロローグにのみぶつけて、
そして本編は書かない。(書けない、とも言える笑)
プロローグだけしか書かないからこそ、後のことは何も考えないで好きなものを好きなだけ詰め込めるじゃん!!(探偵・助手・洋館・戦後・復員兵etc)というコンセプトの元、二週間かけて書いてきました。

挿入した写真も、もちろん自作です。こっちも時間がかかりました笑
なかなかイメージの中の色調にならず・・・。ちなみに、洋館の写真は、オリジナルは夕方ではなく、昼下がりの青空が広がっています。
夕焼けに照らされた館を再現するのが一番難しかった!!

さて、こんな感じで、私立探偵・皇与一と写真家・宇賀神善四郎というバディを無責任にも生み出したわけですが、彼らはこれから櫛名田男爵邸で巻き起こるであろう、どんな難事件に関わっていくのでしょう・・・。
それは読んで下さって、彼らのことを少しでもお気に召していただけた皆様の心や頭の中で展開していく物語。僕も是非とも覗かせていただきたいです。

いやぁ、すごく無責任!!笑
でも、とっても楽しかったです。書いていて。

もしも奇跡が起きて、このプロローグの反響が大きかったら、その時は、もしかしたらこの物語の続きを書いてみるかも知れません・・・。

では、また。次の機会に──。

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蒼海宙人
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