「親の犠牲になった俺の人生」
私には二人の兄がいる。
長兄は跡継ぎとして大事に育てられたいわゆる愛玩子。
次兄はもしもの時のスペアとして存在していた放置子。
この見方は私の主観だけれど、結果である現実に鑑みるとあながち見当違いではないと思う。
表題の「 」はこの跡継ぎである長兄の口癖で、同時に彼のとても横暴な言動の免罪符でもあった。
幼い頃に初めてご先祖のお墓参りへ行った時のこと、突然母が私に言った。
「ここに入れるのは長兄だけなのよ。」
「どうして?」
「ここには跡継ぎしか入れないの。
あんたはお嫁に行くんだからそこで入れてもらいなさい。
次兄は次男だから可哀そうに自分で建てなきゃ仕方ないわね。」
母の言うことは間違ってはいないのだろう。
ただ、幼い子に向ける言葉としてどうなのか。
私はとても居心地が悪くなり、お墓参りというものに抵抗を感じた。
跡継ぎさえ大事にしていればそれ以外を適当にあしらって構わないというその母の姿勢は当然長兄に継承される。
長兄の弱者への横暴な言動は幼い頃から常態化していて、そしてそれは長男なのだからという理由で大目に見られ、なんなら正しいとさえされ続けた。
長兄は父母同様、私にとって怖く、安心できない相手だった。
もし時代が今であればあの人達はどうなっていただろう。
父も母も長兄も、罪に問われただろうか。
私が長年の思いを吐き出したとき父は言った。
「そんな時代だったんだ。」
そこには俺だけじゃなくあの時代の父親は皆そうだったんだという語彙が含まれていた。
そんな話ではない。
家父長制度が残っていても、親が絶対だったとしても、その判断や言動の礎となるのはその人の人間性。
昔も今も、どのような言動に出るかはその人の人間性に因る。
今と昔、時代によって変わるのは罪として確立するか、しないかだけだ。