しあわせの砂時計⏳
寺院の庭には、弟子が砂に描いた波紋があって、きっと、息をとめて無心にといいきかせながら箒を引いたんだろうなぁ、と。ひとのしたことをそうやって勝手に想像して、自分にはできないからすごいな、と感心する。側を通るインバウンドな人々が、おとなしく、履き物をビニール袋に入れて手に持っている様を見て、こういう日本的な体験に伴う感慨をアッチに持って帰ってもらいたいものよ、と。そういいつつ、寺を後にして、おいしいものにでもありつくと、すっかり忘れてしまうが、ときおり、カレンダーや絵はがきで同じような光景を見て、あぁ、と思い浮かんだりもする。14時間も飛行機に乗って何処かに行こうなんてもう思わなくなってしまったけど、国内でも、近所でも、小さくてもこころが動くのは大切。わたしたちのからだは400以上の大小の骨が組み合わさって、しかも、無意識に統一的に動くから、立てるし歩けるし、自由自在にはたらくことができる。はたらかせる、といわないのは自分で動かしているわけでなく、自律的にあーしたりこーしたりするから。病を得たら歩け、というのは、寝たきりを避けて、この骨の動き(振動)が歩くリズムで整うしくみを理解してのことだろう。動けないことは気も血もジッとして巡らないことに陥ってしまうから。
さて、砂時計なんて、最近は、しげしげ見つめる機会もないが、同じ3分でも妙に長く感じることがある。わたしは、カップラーメンの待ち時間を砂時計で測ったりしないので、出番はないし、家の何処かに転がっているんだろうけど、というシロモノだが、それこそ、旅先の喫茶店の窓際にそれとなく置かれていたりすると、ほー、と目をひく。わたしにとってのしあわせは、不安なく安心していられること、と感じているので、この、砂時計の長い短い感覚は、おそらくこころの状態によるのだろう。そもそも、時計の3分は、概念としてつくられた人口の時間でしかないので、いくら、セシウム原子の周波数で超高性能にカウントしたとしてもニセモノでしかない。もっとも、ニセモノ以外のほんものもない…だから、ほんとうは、おひさまの傾きを一瞬で見て感じて、後、2時間もしたら日没だな、と頭を通さずにわかる感覚が、無垢のしあわせの入口なんだろう。素直に、周囲と同化してはじめて感じられる。主語のないそもそもの自分、そこには時間なんて流れてはいない、と思う。
台風騒動ですることがない自宅待機さん、是非聴いてみてください。
stand FM声の玉手箱「しあわせって何Part2」