noteで岡潔先生講義録からインスパイアされた記事を掲載しはじめて一年が過ぎた。担当する番組でも度々とりあげているので、また、しゃべってるよ!と思われるのかも知れないが、いい続ける。何故か? このままいくとマズ過ぎると思うから。世の中が余りにも末法末世化していて、ついつい文句をいいがちだが、かといって自分ひとりが何かしても無駄だ、ラチがあかないとも思っていて善や光はいっこうに形にならない。 世界を変えるのは日本人といわれたりもするが、その日本人のオリジナルの精神性を本人たちが
最近、痛感したことがある。子どもの頃から寒がりでからだも弱かったから、パジャマのままストーブの前に居座って、あるいはお日様の匂いのする布団でぐずぐずするのは至福だった。それが、30代以降は、あろうことか怠惰とはまったく反対の生産性や効率を求める大人の見本のような生き方をするようになって、何の疑問も感じていなかった。ここへきて、歪な資本主義(という名の共産主義化)が壊れかけて、すべてを無意識に金銭で量っていたことに思い至って、そういうのやめてさぁ元に戻ろうよと(社会全体に対して
わたしらしい、といったら、メインの紅葉ではなくて手前のススキにピントを合わせること…例えば、作家や職人さんなら、コレはきっとあのひとの手によるものではと他人様からフォルムやその醸し出す雰囲気でわかるというか。しかし、一般人が自分らしいという場合には、ひとさま視点ではなくて、自身がこう思うあるいは良い意味でも悪い意味でもこういう気質習慣性が大いにあると自覚していることになるのだろう。すると、当然ながら、ひと視点と自分目線には乖離があり、時には、へぇ、そんなふうに思われていたのか
朝からこまねずみの様にはたらいた。28年活動したNPOをそろそろ解散しようと思い立って、出版した絵本やCDの在庫を何処か(幼稚園や保育園)に差し上げようか、抱えたままにしていた古米の未開封玄米を何か子どもたちのプチ学習に役立てられないか…ひと月前にようやく手続きや方法を思案しはじめて、法務局、官報の手続きに続いて、アレやこれやしていた。コロナ禍で活動休止していた間でさえ、面倒くさがって解散は延期し続けていたのに、こうなると一気呵成の流れが生まれて、次のステップにいく。きのう試
ようやく、富士山に初冠雪と(写真は岩木山)…すっかり季節がズレ込んでしまって、紅葉シーズンがやっとはじまるのか中途半端で強制終了してしまうのか、ハラハラ過ごす秋になった。暦の上の晩秋なんてほど遠い。 最近、巷にあふれる誰かの絶望または希望的観測の主張を見聞きするにつけ、ははん、表面から少しだけググッたところで、それがすべて(真実)と信じているのだなぁと複雑な感じがする。いや、役者は変わっても裏はつながっているので、さらには一見主役のように振る舞っている本人たちは真実のほんの一
〝雨が降る日は一歩も外に出ないで〟が許される自由人っていいな( ̄ー ̄)ニヤリ、生活に保証はないけど…でもさ、ほんとは誰だって明日をも知れぬ身なんだよね、と小さく意地悪そうにつぶやいてみる。11/1 11:11に時計をチラリと見る。つい2・3日前に、youtubeのいいねを自分が押せば、44444になる、へぇ、ってタイミングに出くわした。車のナンバーかiPadの時刻かゾロ目は毎日何度も見るので珍しくはないが、意識になければきっとコレも見なくなるにちがいないと思う。 standF
朝から、殻つきの生落花生を炒るついでに、かぼちゃのタネと銀杏も時間差攻撃で炒って、もう、1日分の仕事をしたような気分になる。月曜はゴミ出しと掃除の日でもあるので、コンプリートすると9時をまわる。お一人様なので、かぼちゃのタネを一袋買って消費するなどあり得ないから、たまぁに、生のかぼちゃからくり抜いたタネを1日干してフライパンで炒ったりする。あの、小さいタネを1粒ずつ爪か歯で割ってモゴモゴしていると、何だかお猿さんみたいだなとおかしい。こういうのは、春や秋の気候がやさしい時期だ
子どもの頃、いちばん苦手だった言葉(T . T)もうひとつが、寒い。幸い、薬膳漢方を治めてから、寒いは克服できたが、他の2つは、大人になってもずーっと、字を見るのもイヤだった。怠け者のわたしがそれらを許容し受け入れるようになったのはすでに50になった頃。未熟児由来の虚弱体質で、負けん気など頭のどこにもなく、徒競走でリベンジしてやろうなど考えもしなかったし、その上、子育て経験がないので、何もできない赤ん坊に振り回され続ける忍耐の数年間もなかったので、親の介護(というか寄り添い)
前回、おうち湯治チャレンジについて書いた。湯治のイメージは、入浴回数をかせぎのんびりダラダラしている…になろうが、医学的には、一定期間くり返し体温を上げて、それを習慣→恒常化させたいねらいがあるらしい。へぇ、そうだったんだと感心してしまう。自律神経系にダイレクトに作用するから、はじめは、就寝時に熱って寝付けなかったりもするから、昼間でもダラダラして、昼寝したっていいよ、という環境、状況にする必要があるのだと連想する。日頃から、シャカリキにはたらいている人種には、なかなか実行で
飛び飛びに予定があって温泉滞在できないので、では、自宅で湯治気分を味わってみては、と天然100%入浴剤+ひば油数滴で1日3・4回入浴してみる。きょうは2日目、真菰筍の皮も投入。わたしひとりだし、ウチは水道管接続スーパー量子水なのでお湯に抗菌性があって2・3日はくり返し追い焚きしても大丈夫( ̄ー ̄)ニヤリ…まったく風情はないが効果はあって、滝のような汗とはこのこと。 温泉滞在といえば、あのひなびた感じとか昼からビールでゴメンねとか(いや、わたしはふつうでもそうだが)いつもとちが
前回、ものごとはひとつひとつがバラバラに起きていて、AがBの原因になることはない、と書いた。つまり、デジタル表示と同じで、1枚の独立したカード(場面)を自分の意識でつなげて時間として線形認識している。たった今過ぎた過去・とまだ可能性であって点ですらない未来。過去はすでに経験したから、遠い過去でも記憶に残る。未来は実態が何もないから見通せない。だから、わたしたちが事実として感じられるのはその「・」の一瞬(にも満たない刹那)だけ。ものごとが反応する=フォーメーションを組み替えるに
この1週間で、連鎖反応的に起きたことが、みなさんのヒントになるかもなぁ、と思われる( ̄ー ̄)ニヤリ…わたしは常々、noteで無為自然的に生きようといっているわけだが、そうするとどうなるか、何故そうなるのかの見本を。 はじまりは、連休明けに温泉でも行こうかなと思って、源泉かけ流し半露天夕食付きおひとり様OKの条件でかなりの長時間ググッてみたのだが、帯に短しでいまひとつ決定打に欠けたため保留にした。そして、翌日、公的手続きに想定外の費用が32,000~38,000円かかると判明し
最近、youtubeのサムネにやたらと過激な言葉が並んでいるのを怪訝に思うが、◯◯な末路とか◯◯がヤバ過ぎるとか書いているものの、中身はぜんぜん末路(不幸やおぞましい結末)ではなく、ヤバい結論らしきものもないときていて気味が悪い。企業のCMなら誇大広告といわれそうだが、意図的にそうしているのではなくて、そもそも漢字の意味を間違ってるんじゃね?と思う。滅茶苦茶は、お湯の温度も考えないでお茶をいれた結果が台無しになることだろうから漢字で書けばイメージできるが、すでに難読漢字でもな
ひとの感覚はちがうから、いいわるいも微妙にはちがう。しかし、これは絶対的にダメでしょ、というのはある。他者の生存を脅かすような、殺すな盗むなはいうまでもないと思うが、ひとりひとりはそう思っていても、何故か塊となると理由をつけて正当化したりして埒があかなくなる。個々の責任が問われなくなるからだろうか。なんだかねー。こうなると、都会にいながらにして山奥で暮らす仙人のように透明になって、そこはかとなく生きるしかないのかなと思えてくる。夏の間、命の危険を感じて庭の草取りをサボっていた
なんだかね、うかうか温泉につかれなくなろうとはねぇ(T . T)、10/1以降は、源泉かけ流しかつ貸切湯入替えでないと安心してくつろげないという、ぶぅぶぅ… 今年、桜の季節に、憧れの酸ヶ湯温泉で、千人風呂いちばんのり貸切状態を達成したのを思い出しつつ嘆くこの頃。 ふつうに生きていると、やたらと人工で何かしようというのは、臓器移植やAIも雨降らすとか含めて、そこまでしなくていいんじゃないと思えてくる。まして、不自然恣意的にそんなこと300年も前から考えてるやつらがいたなんて想像
わたしたちは、生まれてこのかた記憶を蓄積していて、五感で刺激をキャッチする度にそれらの情報とマッチングして、ほとんどの場合は無意識に反射的に思考や行動をしている。いちばん情報量が多いのは視覚だろうね。目は口ほどにものをいう。一方で、死ぬ間際まで耳は聴こえているらしいし、臭覚は長期記憶と近いところに中枢があるから似た匂いを嗅ぐと遠い昔の記憶が蘇ることがある。 ところが、今は、スマホに五感を乗っ取られたようなひとが多くて、直接ひとと接触する機会が減り、自然の中で遭遇する香りやかす