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好きにするorわがまま

嘘つき台風になぞらえて、国宝風神雷神図屏風(レプリカ)…いわゆる模写の精度が上がって、あるいはAIなど昔はなかった技術がどんどん出てきて、身近になる、便利、陳腐化が同居したような何でもアリな世の中が展開されている。しかし、ソレをどうとらえるかは自分の勝手で、ひとそれぞれな全く不同一な世界観の中に生きている。パラレルワールドなんていうけど、そもそも、かっことした物理的な現実世界なんて存在していないのだから、いちいち、別々の世界など存在しない。量子、例えば電子はその存在位置を確立でしか表せないのだから、ジッとそこに在る世界などはない。算数から早々に挫折したわたしの説明だから怪しいが、わたしたちが見ている目の前の現象世界はあくまで主観でしかなく、もれなく全員で確認できる客観的な世界などないのは、400年前のデカルト先生がおっしゃっている。AIのチカラも借りていて、一見把握しやすそうなのに、それでも何も進化していない。まぁ、考えてみるのは無駄ではないだろうけど。だから、人間は考える葦なわけです。その価値を決めるのは自分自身なので、ひとから評価されなくたって、好きなことを楽しんでやり続けていればいい。わたしが、noteに書いているのはもっぱらそんなことに終始している。

じゃ、何でもかんでも出鱈目に気の向くままにやっていいのかというと、それはソレで限度限界もあるし、勝手が過ぎればわがままと呼ばれるし、まわりに迷惑なこともある。その基準はひとの評価や批判を気にするかどうかというよりは、自分の美意識の問題。はしたない、を漢字で書けば端ないになるから、ギリギリいっぱいで余裕がない、貪ってまわりを慮ら(おもんばから)ないってことになるだろう。美しくはない。西洋的な、結論をはじめにまくし立てて、相手の言葉を遮ってでも自分の主張を隙間なく展開してケムにまくような対談とは呼べない会話などもコレで、幼稚を絵に描いたような場面を見聞きすることが多い。ま、わたしは関わっていないからそっと傍観しておくが、ずいぶんおかしな方向へきたもんだなと情けない。森は伐り倒し、資源は使いたい放題で、出した公害も知らんぷりして100年きたらこんな有様で、さらに、自然環境の価値を数値化して経済的に売り買いしようなんで気がふれているのか?そういう、大脳前頭葉の欲をチカラの正義にした西洋的思考のやつらをそろそろ風神雷神様に一掃していただけないものか。

あるいは、反対から考えてみたら、好きにしたらいいのにできないのは、まわりの空気感(実際にはありもしない)にとりまかれて、自由に好きにしていられないと思い込むからだろう。誰も気にしていないのに。しかし、気にしていない、が許されるのは、限度限界にまだ猶予があって、お互いに目くじらを立てなくてもいい範囲だからこそなのだから、今の世の中におかしなことがいっぱいで、先行き破滅しかないじゃないか、という有様になってすら、おかしい、それはまちがいといわないのもどうかねぇ。
わたしは、雷様みたいに怒らないし、風神様のようなパワーはないけど、いい加減にしろよな!


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