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コオロギが鳴いてるね?

ようやく、秋らしさがチラホラ…
現代人には、もはや、コオロギとマツムシと鈴虫のちがいはわからないか
も知れませんが、それでも、秋の晴明さ、ちょっぴり淋しさを感じますね。
西洋のひとは、虫の音を側頭葉右で雑音として処理する、といわれますが、
つまりは、風流を感じる素のひとつがそもそも欠落しているわけです。
わたしたち、日本人は、虫の音を言語と同じ側頭葉左で認識する、また、
雨や風の音の表現は400とも500ともいわれています。
これは、色についても同様かも知れません。
秋は錦といいますが、赤や黄のグラデーションが、おひさまの輝きを受け
て、やがて金色に同化する様は、紅、赤、朱、べんがら…赤色ひとつとっ
てみても覚え切れないくらいの色名となって存在しています。
例えば、絵画の遠近法は、その知識を知らないひとには機能しない(そう
見えない)そうですから、同様に虫の音があることを知らないわけです。

もちろん、それは、優劣でも正誤でもない感覚のありようですが、
 秋風は ものいわぬ子にも涙にて   松尾芭蕉

岡先生が頻繁に引用なさる芭蕉の俳句にみられる、言葉を話せない幼児
でさえ認識する淋しさやもののあわれ、その湧き出るこころの本体が、
「真情」…
だからこそ、俳句に造詣がないひとでも、小さな子どもでも、目の前に
広がる大自然の光景から同じようなイメージを受けとるのだ、と。
そして、それが、道徳の根底に流れる共通認識だとおっしゃっています。

 先日、ワクチンも癌の三大治療も拒否する友達から
「潜在意識を書き替えるにはどうすればいいと思う?」と問われました。
彼女は、病気の前にこころの問題があることをすでに自覚しており、じっと
そこと対峙して来たのです。
夏の疲れも出て、病状が少し進んだかも知れない、ここで、もう一度こころ
をリニューアルしたい、そう考えたのでしょう。

「そうね、替えたいにフォーカスするより、角度を変えて、子どもの頃から、
ずーっと我慢して来て、それすら見ないようにフタをしていた辛さや悲しさ
を解放するとかいうけど、むしろ、もう我慢しなくていいんだし、みんなに
やさしくしてもらってるし、今回のことが、きっかけになったんだから、
良かったね、一緒に楽しく生きようね、ありがたいね」って感じで…
と答えました。
ひとは、相手鏡といいます。
わたしにもまだ拭い切れない断片みたいなものがこころの片隅にあるので
しょうねぇ…

あぁ、もう、何の手立てもない、とため息をつくような時、
ヒトは、天を仰いで「どうか、あのひとが助かりますように」と願います。
それは、洋の東西にかかわらず、万人に共通する純粋な気持ちでしょう。

日本では、あのひとは薄情だ、あのひとは情に厚い、情にもろい、といい、
この場合の情は、単なる、感情ではないことがわかります。
表面上の喜怒哀楽ではないこころ、それを無意識にでも「情」と呼んでい
るのです。
いわゆる、欲望、といわれる感情とは別のものです…


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