ちょっとのちがいが...
ひと雨ごとに春の気配が…寒さもそろそろお別れ?というのでペンギンさんもお疲れ様でした。以前に「ネコとペンギンとふたりの男」でもいたらない顕在意識を強化するなと書いて、ことあるごとにくり返して、そう奨励しているが、いう端から、なかなかイメージできないだろうな、と思いつつ書いたりしゃべったりしている。五十歩百歩というが、倍ちがうし、信号の黄色は、次に青に変わるなら良いが、赤になるなら要注意なわけだし、ちょっとした一瞬の差が命運を分けることはある。何でそうなるか…
ひとついえるのは、実は、わたしたちは一瞬いっしゅんの出来事をいちいち脳で判断などしていないし、日頃、わたしたちが「自分」と認識しているのも無限に広がる自他のない真相の意識「情」と比較するとあまりに小さな空と雨粒のようなもので、だから、意識して、今何かを考えている自分と思い込んでいるものは本体でなくて、五感に翻弄され続ける、表面上の、すべてを把握などできない小さいわたしなのだ、と見破らない限りは、ボーッと生きているのとあまりちがわない。なんとも悲しいが真実(T . T)。
最近は、物質よりも目に見えない意識の方が大切などといわれる風潮があるが、意識といってもね、同じものは指していないことの方が多いだろう。
昭和な言葉に、流行り廃りも先の知らせというのがあって、いくら意図的に流行らそうとしてもダメで、何がきっかけなのかわからないが一世を風靡してしまう流れになって、後で振り返るとそういう時代(の雰囲気)があったね、という現象のこと。さしずめ、今はみんながリュックを背負っていて、災害や不況の先駆けでなければ良いけれどという流れになってけっこう久しい気がする。そういうありがたくない流れはやめにしたいが、その何故だかわからないけど、という流れの根底には、主語のない一体性、意識を通さないでわかる何かが潜んでいるような気がする。個人の意識されない心理を潜在意識というが、ソレの万民共通バージョンみたいなものなのか。
大脳を通さなくてわかる「情」のはたらき、つまり、無差別智には4つある。からだが自律神経によって寝ている間も無意識にでも機能しているのと同じで、そのふしぎなはたらきによって、わたしたちは生かされ続けている。
そういう意味では、(自我意識を持たない)自然と共通=一体ということになる。元はひとつ、といえば宗教か、といわれそうだが、事実なのだから真摯に受け止めれば良いと思う。
頭で(大脳で)考えすぎてバカになる。この数十年はそういう時代だと思う。
春の気配は、頭で分析するものではなくて、パッと一瞬にしてわかる。それが「情」のはたらき、大円境智のはたらきと岡潔先生が教えてくださっている。2歳1ヶ月に満たない童心季節は、自我のない無差別智の時代。そして、3つまでに完成されるこの時期がベースとなって、三つ子の魂百までとなる。