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創作に天才性は必要か?
気になる画家がいた。
構図、目線、描き方などに目を引くものは感じられない。けれど、コンセプトが面白かった。素材の魂が伝わってきた。それだけで少し、感銘を受けた自分がいたのだ。
後日、アートに目の肥えた友人にその画家の絵を紹介すると、一言、
「迫力はある。でも才能はあるのか?」
鋭い指摘は、画面に映る画家の絵を貫いて私の胸さえぐっと突いた。
才能は、あるのか。
あると首肯できない。
けれど胸に迫るものがあったのだ。それだけでは駄目なのか。
かつて、別の二人の友人から言われた――この世の真理かのように満足そうに言われた言葉を嫌々思い出す。
いまでもよく思い返す言葉だ。
「才能がないやつがクソみてえなもん社会に創り出すより創らねえほうがみんなのためだからな」
ひとりは社会にむけて言った。もうひとりは社会に射程を構えながら私を見据えて言った。
そのとおりだ、私に才能はない。創り出したものには真の独創性がない。どこからか見つけたモチーフを数個、胃袋の中で転がして、胃液を纏わりつかせてグチャグチャになったそれを、文字に書き写している後味の悪い感覚が、いまもときおり甦る。
書き続ける才能は、あると言える。書いてきて十数年である。これからも書きたいと思える。
しかし、それだけでは、あの友人の問いかけに答えられるだけの根拠になり得ない。
才能――創作における天才性がなければ、ほんとうに創らないほうが良いのだろうか。
私は、それには否と答える。
鑑賞者誰もが、創作物に光る天才性に気がつくわけではない。それに天才性ばかりを尊いとするわけでもない。認知と感受性には、それぞれの生活環境と身体に根ざした、個体差と程度の差がある。画家の絵はすでに数枚売れていたし、私のお話も、誤解を恐れずに言えば、読んだ感動を感想に込めていただいた経験もある。ひとの役に立っている。それだけでも、天才性がなくたって、創作の意味はあると言えるのではないか。
そんなふうにひとの役に立たなくとも、自分の役に立てば良い。自分のこころ畑の肥やしになれば良い。それが心身の健康に繋がるのならさらに良い。そうであるなら、天才性がなくとも創っていい。
でも、天才性の光る作品は、目の肥えた鑑賞者と、作り手のためになる。そして、ひろく、一般人のこころの世界の充実をも担っている。
担っているものの質が違う。天才性があるものは、神に任された使命があると、言えるだろう。
私は憧れてしまう。
天才というやつは凄い、と。
でも、天才性がなくたって、それをクソだとは言わせたくはないのだ。
◆〇◆
創作をする友人たちの作品を読んだり観たり聴いたりすると、打ち拉がれること、山々だ。
彼らに比べれば、なんて、いま自分が作っているものには輝きがないのだろう。
打ち拉がれる。
それでも、文字を連ねて重ねることは楽しい。文字のもつ余韻を合わせていって、なんとも言えない和音にしたためるのは、幸福だ。
そうだ。私は人と比べる前に、
人の意見に左右されるその前に、
自分の幸福を満たさなくちゃいけない。
そのために創作してきたのだ。
それがいまの人生の楽しみであるから、ようよう失わせてはつまらない。同じような気分や悩みに絡め取られる方がいたら、温かくて柔らかな気持ちを送りたい。そんな思いで、これを書いたのだ。