冬の朝、正直になれない理由
いつもと同じように、朝七時に家を出る。「行ってきます」という声に、彼女は寝息で応える。暖房の効いた部屋から玄関に出ると、冷たい空気が頬を刺す。その寒さが、今は一番つらい現実を思い出させる。
霜の降りたフロントガラスを、手早く拭き取る。息が白く凍る朝。二週間前、突然の解雇通知。経費削減のための人員整理。そう告げられた瞬間の、会議室の蛍光灯の明るさを、今でも鮮明に覚えている。
いつもの通勤路を外れ、ショッピングモールの立体駐車場に車を滑り込ませる。平日の冬休み、まだ開店前の駐車場は、不思議なほど静かだ。三階の隅っこ、誰にも気付かれない場所に車を停める。これが今の自分の「オフィス」。
エンジンを切ると、車内の温もりが少しずつ失われていく。指先が冷たくなり始めた頃、スマートフォンを取り出し、いつものように求人サイトを開く。しかし、画面に並ぶ募集要項の文字が、今朝はやけにぼやけて見える。
窓の外では、冬の朝日が空っぽの駐車場を照らしている。白線で区切られた駐車スペースに、薄く霜が降りている。その白い結晶が、まるで将棋盤のように整然と並んでいる。その光景に、どこか自分を重ねてしまう。区画整理された人生。はみ出すことを許されない枠。
彼女には言えない。半年前に同棲を始めた時の、あの希望に満ちた表情を思い出す。「一緒に頑張っていこうね」。その言葉を裏切るような現実を、どうして告げられるだろう。窓の外では、小さな雪が舞い始めた。
時折、厚手のダウンジャケットに身を包んだ早朝のウォーキング組が通り過ぎていく。開店準備をする店員たちの姿も見えはじめた。マフラーで顔を覆った人々の吐く息が、白い靄となって空に溶けていく。この場所にも、確かに冬の日常が流れていることを感じる。でも自分は、その日常の外側で、ただ時間が過ぎるのを待っている。
財布から出勤時に買った温かいコーヒーの領収書を取り出す。これが今日の「仕事」の証拠。カップは今では冷め切っている。夜、彼女に見せる小さな嘘。胸が締め付けられる。
駐車場に差し込む冬の光が、ゆっくりと角度を変えていく。氷点下の空気が車内にじわじわと染み込んでくる。スマートフォンの画面には、新しい求人が追加される。その中のどれかが、きっと自分を受け入れてくれるはずだ。そう信じながら、冷たくなった指で、また一つ応募ボタンを押す。
真っ白な駐車場の向こうで、モールの営業時間を告げる看板が明かりを灯し始めた。薄い雪が舞い続けている。もうすぐ、この場所も日常の喧騒に包まれる。その前に、今日も静かに車を発進させる。「お疲れ様」と、凍える車内で呟く。冬の朝という一日が、また終わろうとしている。