「私」という自己感覚からの卒業
「私とは何ですか?」
「私とは何ですか?」という問いかけがあったときに、日常的なレベルでは、・名前、職歴、学歴、趣味、家族歴・・・
という社会的な役割や機能、そして関係性について答えるかと思います。
それは質問者が「社会で生活を送っている人である」という認識が先立つために、このような常識的な返答を反射的に行います。
この質問が、病院で問われた場合、・身長、体重、血圧、血液型、様々な診断結果を答えるでしょう。精神科であった場合、最近の気分や感情の変化を答えるかもしれません。
これらは、病院という場が求められている私についての情報を反射的に答えているわけです。
これが、大学の授業やゼミで、このような質問があった場合、
私とは、「人類の文明が誕生してから、日本という国に生きているホモサピエンス」という答えを出すかもしれません。
いずれにしても、これらは全て、歴史や社会、医学的、心理学的な文脈の中での「私」について語っただけです。
これらは全て概念的な物です。
歴史については、昔は「1192年」と言えば「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」というように鎌倉幕府設立の年代として私の世代は何の疑問もなく覚えていましたが、現在は「1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府」になっています。
江戸時代は「士農工商」という身分制度があったと、教科書には書いてありましたが、そのような身分制度があるとは現在は教えていません。
医学的検査結果にしても、数日、数か月もすればその数値はコロコロ変動します。何せ人間の細胞は数か月で殆ど入れ替わり、7年もしないうちに全ての細胞が入れ替わっているとされています。
心理学的な「私」についてはもっと曖昧なものです。1日の内に、喜怒哀楽は変化し、家族やパートナーへの感情も時と共に移ろい行くものが自然です。
これらの概念は、全て幻想であるということが分かります。
しかし、私たちは「私」という、恒久的に存在しているかのような感覚があると、いつの間にか思い込んでいます。
その感覚は、何時から、どこから始まって、どこへ行くのか!?ということに人間は頭を悩ませました。
そして、この「私」という感覚が消え去ることに強い恐怖を感じ、その恐怖から逃れるために様々なストーリーを創作しました。
こうして、「私」という自己感覚が永遠に消えないように、安寧とするために様々な条件を自ら作り出し、その条件を満たすために人生を捧げます。
・祈祷・善行・修行・祈り・お布施・・・そうして宗教と文明は栄えました。
しかしそれらは時効が作り出した物語(ストーリー)です。
「私」という自己の感覚
この「私という自己の感覚」は、自らが消えないように安定して存続するように、様々なものを所有しようと躍起になります。
そうして、・経済・人間関係・健康というものを自分でコントロールしようとします。
そのモチベーションの起点は、「私」が「お金」「人間関係」「健康」を「得る」という『「私」という感覚』です。
しかし、その『「私」という感覚』は先ほど調べたように、概念的な物は全て変化し変わって行きます。そして、感覚的な物は、最も曖昧ですぐに失われてしまいます。
例えば映画に没頭している時や、走らないと会社や学校に遅刻してしまう時、友達と会話を楽しんでいる時や、壮大な夕日や夜空を眺めている時、素晴らしい景観を眺めている時、また忘れてはいけないのは、毎晩寝ている時(特に夢も見ていない熟睡時)など、
何かに没頭している時は「私」は存在しません。
こうして考えると定義上、「私」が無くなると、「死」の感覚もありません。
あまりにも簡単な「死への克服」です。
私たちは、常に「死を克服している」と言っても過言ではありません。
「私」という自己の感覚は、犬が自分の尻尾を見ると、尻尾が逃げているように感じられるので、それを追い求めている感覚に似ています。
永遠にその追いかけっこは終わることはありません。しかしその感覚は人間の本能的・反射的な錯覚です。
「私」という自己の感覚からの卒業
小さい子供は、自分の影を見て、「影が追いかけてくる」と言います。
そして「影はいつも自分のそばにいてくれるから、心強い。自分は一人ではない」と思うかもしれません。
それは、発達段階における、呪術的段階の発想であり、自分の認識視点から自己中心性が抜けないことがもたらす、認知様式です。
子どもがそのような反応や考えを抱くからと言って、大人はそのような子どもを見て、ほほえましく思います。「それは間違いだよ。影は生きてはいない」と真顔で説教したりはしません。
何故なら、そのような子どもの時期は視点はごく自然なことだからです。
大人たちは、個人差は在れど、そのような呪術的な発想や思考は「いつの間にか卒業し、新たなる視点を獲得する」と経験上、知っているから何も心配せずにただ見守っているのです。
では、この「私」という感覚は、子どもが成長すると、いつか子どもが「影は自分に付きまとっているのではない」、と確信するように自然に卒業する感覚なのでしょうか!?
答えはそうではなさそうです。
何故なら、人類史において殆ほとんど全ての人々が、この「私」という感覚を墓まで持ってい行く事例ばかりが観察されるからです。
何故「ほとんど」という表現を使ったか、と言うと、ごく少数にこの「私」という感覚から卒業した人物が、歴史上多数、報告されているからです。
それらを聖人や覚醒者、賢人と多くの人々は称してきました。
科学的に検証され続けている「私」のない状態:「悟り」
そうして、科学が進歩するなかで、この「私」という感覚は、「感覚」であるがゆえに、脳内の生理的な反応であるという、ごく自然な考えが導かれます。
「私」という感覚は、脳内のある特定の部位に関連する感覚であるという場所が推定されました。
2000年以降の研究では、デフォルトネットワークという脳の部位が、「私」という感覚を生み出しているのではという仮説がとなえられています。
以下がその部位と言われているところです。
つまりこの部位が薬物や物理的な影響で発火し無くなれば。「自我(エゴ)」は崩壊する可能性があるということです。
「自我(エゴ)」の崩壊は、「悟り」と関連し、古来からスピリチュアルや宗教のメインのテーマとして扱われてきました。
「私」という感覚は、同時に「私ではないもの」という感覚を生じさせます。「私」と「私でないもの(他人)」との、その両者の間で様々なやり取りがなされます。
場合によってはその間で摩擦が起きます。
この摩擦をマクロなレベルでは「格差社会」、「戦争」として現象化されます。日常的、社会的な現象では「いじめ」などの現象、個人的なレベルでは、自己否定感覚として現象化されていました。
薬物や物理的な要因で、ある日突然この「私」という感覚が無くなるのはとても刺激的です。
アニメ映画エヴァンゲリオンの「人類補完計画」のようなもんでしょう。
非常に興味深いのですが、そこには大きな副作用がありそうです。そして、あまりそのような一斉に「私」という感覚が無くなる現象というものは歴史的には見受けられません。
ひょっとしたら存在するのかもしれないが、ただ単に現在の人類がそれを認識する程進化できていないだけなのかもしれません。
いずれにしても、「私」という感覚は、犬が尻尾を追いかけているような慣習的、本能的な反応であって、いずれは卒業する感覚であるということを知っていると、この「私」からの「卒業」は個人のペースで早まることが考えられます。
何故なら、脳は認識したものを無意識にでも追い求める性質があるからです。
そして、『「私」という感覚からの卒業』というシナプス回路は、既に全ての人間に埋め込まれており、それをどれだけ認識するかでその回路が発現する度合いが異なるというわけです。
人間の脳は何万年も前から殆ど変わっていないと言われています。ということは、釈迦やキリストの脳も、私たちの脳も基本的に同じスペックを持っていることが分かります。
釈迦やキリストと、多くの人々のの脳機能のその差は物理的な脳の構造ではなく、「何をどれくらい認識したか」という精神的、情報的な物だからです。
そうして、先人たちが様残な修練法や修行法の体系をまとめたり、研究してきたおかげさまで、私たちは、過去の積み重ねられてきた知識と技術を享受できる時代に生きています。
つまり、私たちは個人だけの努力だけではなく、これまでの人類が積み上げてきた遺産をふんだんに扱うことができる幸運な世代です。
先ほどの脳の画像も、この時代の恩恵の一つで、この科学的発見があるおかげで、より確信をもって私たちはこれまでの人類の進化を塗り替える脳の発達を遂げる岐路に立っているのだと考えられます。
その準備として、メタ認知機能の開発、つまり「瞑想」の実践はとても有用であると思います。
これは、釈迦やキリストの超アナログ時代から行われてきた技術でありながらも、最新の科学にも取り入れられている、最古であり最新の技術です。
「私」という感覚が卒業した個人の話はよく見聞きします。
今度はそれが個人の話ではなく、集団での話になると、それはどのような社会を形成するのかがとても興味深いです。
そうした空想は、より脳を発達させることに繋がります。
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