万物はフラクタル構造
※これまでの内容を受けて今回の記事を書いていますので、よろしければ前回までの記事からの続きを読んでみてください。
物理宇宙の構造
この画像(ウロボロスの蛇)には、頭に近いほど大きなモノ(地球→星→宇宙)しっぽに近いほど小さなモノ(細胞→原子→素粒子)が書いてあります。 頭がしっぽをパクッと食べている様子が、宇宙と素粒子の研究が密接にかかわっていることを表しています。
このことを表現した金子みすゞの詩があります。
このことを表現したヴェーダの文献があります。そこでは、
と謳われています。
このサンスクリット語の格言は、
という意味になります。
万物は、画像のウロボロスの蛇のように連続してつらなり、かつ、マトリショーカのように、入れ子式の構造になっています。
宇宙は何らかの知性と意思によって作られた、フラクタル構造でできている
宇宙は偶発的な産物でできたという見解では、確率的に説明がつきません。つまり何らかの意図や意思が背景にあってこの宇宙ができているというわけです。
つまりそこには「知性」があるということです。
人工知能学者のシュミット・フーバーは、言うなれば宇宙はミニマミストのような存在が作ったと考えました。
フーバーは、この世界、宇宙は、シュミレーションのような構造でできており、
創造主は何万年か何百万年か先の未来のポストヒューマンなのか、地球外生命体なのか、神のような高次の存在なのかわかりませんが、そのようなかなり高次の知性が作ったと仮定します。そうであるならば、そのような高度な知性がつくる構造ならば、無駄や余計な作業は省くだろうということです。
つまり効率的に、最小の作業だけで宇宙を作るということです。
そうなると、フラクタル構造のように、コンピュータグラフィック技術で作るCG画面のように、同じような構造の図形を大きさを変えたり、反転させたりしてブロックのように組み立てることで宇宙を作っているということです。
簡単に言えば、宇宙を作る際にそのような構造の方がコスパがよいということです。
上図は三角形のフラクタル構造で山が構成されている様子です。このように、宇宙のミクロからマクロまで、
画像のウロボロスの蛇のように、
というように、マトリショーカのような構造でできていますが、その最小ユニットは物理宇宙では超ひもや素粒子ということになるでしょう。
それらが絡み合い、組み合うことで、大宇宙が展開されますが、それを貫く法則はすべて同じです。
物理宇宙は、たとえその最小単位が素粒子といえど、認識される「対象」にしか過ぎない
目の前に広がる物質宇宙は広大で、それがすべてであると考えてしまうかもしれません。
そう考えると、その最小構成ユニットである素粒子や素粒子を生成している統一場の仕組みがわかれば、万物の構造がわかり、つまりそれが「万物の理論」であると考えたくなるかもしれません。
しかし、それらはいくら小さい世界にまでその根本ユニットを探しても、物理現象でしかありません。
残念ながら、この視点が唯物主義を生み、今日の科学至上主義を生み、それは、唯一の絶対的な真実があるという一神教的な考えと一致します。
つまり、このような観点ががあると、絶対的な観点以外は「間違い」であり、排斥されてしまいます。
しかし、物理現象はすべからく、すべて、
コンピュータグラフィックでいう映像であり、映画でいえばスクリーンに映った映像に過ぎないのです。
つまり、それらはスクリーンに映った写像であって、
これまで前回までの記事で見てきた主体・客体・認識過程の三位一体でいうところの「客体」の部分でしかありません。
物理現象である「客体」は認識すし解釈する「主体」があって存在できる
金子みすゞ氏の詩を紹介しましたが、金子みすゞ氏は、「花の中の蜂」を見たときに、フラクタル宇宙であるウロボロスの蛇を「蜂はお花のなかに」という詩として解釈したのでした。
人間である金子みすゞ氏が、花の中の蜂に万物である宇宙を見たのです。
しかし、他の人々は花に中にいる蜂を見て、だれもがそのような解釈をするわけではありません。
その解釈は、一人一人異なります。
というように、人間は万物を解釈する際に、感情を伴います。
そこには大脳辺縁系の情報処理を、左脳の言語野の情報処理で言葉として紡ぎ出したということです。
その客体である対象を解釈する構造は、
「客体」:「花の中の蜂」という対象を視覚や嗅覚、触覚などの五感による感覚器官で受信し、
「機能・過程」:「脳と心」で情報処理をし、言葉で変換、つまり解釈します。
「主体」:金子みすゞ氏という個人が、「花の中の蜂」という詩という形で表現しました。
これが認識の三位一体です。
つまり万物は単なる物理的な現象ではなく、主体による「解釈」によってその形態は異なっていくということです。
だから、
私たちの根源や、その最小単位が素粒子、ないし、素粒子を構成する物理的な「何か」ではない!
ということです。
それらは一見根源的な基本ユニットのように見えますが、実際は何らかの生命現象が認識した結果、現れる現象です。
映画のスクリーンに映し出されたイメージであり、写像です。「プラトンの洞窟の比喩」でいうところの影にしか過ぎず、
間違っても「万物の理論」ではありません。
このことは多くのスピリチュアリストと証される界隈で誤解が招かれているように感じますが、万物の根源は素粒子や統一場のような物理現象ではありません。
それらは物理現象であればなおさら、認識される「客体」にしか過ぎません。
重要なので、繰り返しますが、映画のスクリーンに映っている「素粒子」や「統一場」というイメージ映像のようなものです。
要は、映像が現象のすべてではなく、映像はあくまでも結果という事象です。
映像を生み出す「機能」と「過程」があり、それを認識している「主体」というものが三つそろって現象が起こります。
「素粒子」や「統一場」も情報空間における写像の結果ということです。
「素粒子」や「統一場」も何らかの認識主体が「認識」するから生まれたのであって、その認識主体がなければ宇宙は存在しません。
人間原理という知的存在による「認識・解釈」によって宇宙は存在する
「人間原理」というものがあります。
というようなもので、上記のように観測する、つまり認識するものは人間ではなくとも知的生命体ならば何でもいいわけです。
人間という枠を超えるならば、昆虫でも動物でも、植物でも「認識・解釈」という行為は行っています。
例えば、動物は特に生殖行動におい雄は雌から魅力的な行動やデザインをとることで、生殖行動に及ぶ確率が高まり、自分の遺伝子を残す確率も高まります。
また、捕食者から逃れたりする際に「擬態」をすることで、「天敵から自身を捕食すると危険である」というサインを出し、天敵はその擬態を危険であると解釈する、コミュニケーション(伝達)がなされると、生存確率が上がります。
植物も自身の遺伝子を広い地域に広げるために、様々な工夫をして動植物に取り入りいることは周知の事実です。
つまり生命現象であれば、その主体が何らかの形で「認識・解釈」をして、自身の遺伝子を残す。つまり生存率を上げることを行っています。
まとめ
これまでをまとめると、
つづく