「賢い人の秘密」を読む - ⑤演繹・帰納・類推
さあ、土曜日だ。
土曜日は、哲学的な目線で、精神・社会・人生などの形而上的な世界の原理を探求していこうと考えている。
現在はクレイグ・アダムスの「賢い人の秘密」を読み進めながら、ボクが受けたインスピレーションを言語化して書き連ねている。
ご興味おありの方はお付き合いいただけると幸いだ。
レトリックのセンスとテクニック
レトリック(修辞法)について少し補足させてほしい。
書き言葉であっても、話し言葉であっても、それが洗練されていて、読み手や聞き手の感情に訴えるようなものにするためには、ある程度のセンスとテクニックが必要だ。
それは、その人が持ち合わせている語彙の中から、どんなワード(もしくは言い回し)をチョイスするか、また(頭韻などを含めて)どんなリズムを作り出すかなど、その人のセンスによるものが大きい。ボクは、これは右脳の機能の豊かさによるところだと思っている。
一方で、わかりやすく、且つ説得力がある文章を作るという点においては、左脳による機能が大きいと思っている。それは文章の構成力だ。序章 - 本論 - 結論、起承転結、序破急…、どんな言い方でもいいのだが、こちらは文章全体の構成によって、グッと人の心を惹き付けるテクニックだ。
論証
今日は「論証」について深堀っていきたい。
論証とは、ある与えられた判断が真であることを妥当な論拠を挙げて推論することだ。そして「推論」の方法には「演繹」と「帰納」と「類推」の3つがある。
演繹と帰納はどちらも推論のための論理的な思考法だ。
どちらも、結論を推し量るために複数の事象を関連付けるのだが、その出発点と結論の求め方に違いがある。
演繹
演繹は、普遍的なルールや法則(前提)を積み重ねて結論を導き出す思考方法だ。まず仮説を立て、その仮説(論証が成立すればそれが結論となる)に向かってレールを敷いていくイメージだ。これは多くの人が無意識に頭の中で行っていることだが、前提が間違っていたり、なんらかの固定観念を持っていたりすると、結論を誤ってしまう場合がある。
前提として置かれるものとしては、価値観や文化、方針、因果関係などがあり、多くの営業活動は(顧客のニーズなどを前提に加えて)演繹法によって行われていると言っても良いだろう。しかし、前提が「一般的に」とか「多くの場合」などとなっている場合は、そのソース(情報の元)や前提範囲を確認すべきだ。また人にはヒューリスティックと呼ばれる直感的思考が存在し、それによってバイアス(思考の偏り)を生んでしまう場合があるので、ロジックが飛躍しないよう注意が必要だ。
帰納
それに対し、帰納はロジック重視の思考方法だ。
過去のデータから傾向やパターンを発見し、それらの共通点からロジックを組み立てていく。つまり、演繹が普遍的な前提からスタートし、それが個別の事象にも当てはまることを証明することであるのに対し、帰納は個別の事象からスタートし、それらを全て検証した結果、同じものが多ければ、それが普遍的なものであると証明することであり、ある意味演繹の逆方向の思考と言える。もちろん、帰納においても前提となるデータに偏りがないことを疑う必要がある。
類推
類推は「アナロジー思考」とも呼ばれ、異なる事象の中から双方の類似点を見つけ出す思考法を指す。アリストテレスによると、心理を追求するにも、議論するにも、物事を比較する能力が中心的な役割を果たすそうだ。
類推に似ている表現方法として「比喩(メタファー)」がある。
比喩には直喩と暗喩があるが、どちらも見た目や印象を表現する際に使われることが多い。直喩は「まるで」「~のようだ」「~みたいだ」などのワードを使って表現するもので、暗喩は「あの人は〇〇だ」のように、例えるものと例えられるものの関係性が明らかに密接である場合に、「~のよう」の部分を省略する表現方法だ。
比喩が表現のテクニックであるのに対し、類推はロジックだ。
見た目などに共通点がなくても、構造や構成要素が似ている場合がある。それらを含めて比較し、結論に導く手法が類推による論証だ。つまり、帰納は多くの個別の事象を元に、それらを検証して普遍的な結論に導こうとする方法であるのに対し、類推(比喩を含む)はひとつの比較から得た法則を、別の事例に適用しようとする方法である。
そして、多くの人は比喩や類推が大好きである。
人は誰でも、ある事例の中で一定の法則や属性が併存するとき、同様の法則や属性が他の事例においても存在するという主張に惹かれるものなのだ。
(続きはまた来週)
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