紫は雨に烟る5 - Izumi Origins EP3
神像の残骸から現れた長虫は、咆哮と共に天井へ伸び上がった。長虫には腕も足も無く、灰褐色の芋虫のような胴体の先に、ただ巨大な口腔が開いているだけだ。醜悪な長虫は神像を遥かに越えて屹立する。かつてこの地の底に生きた影の民達なら、このおぞましき長虫を神の使いと崇めたであろうか。例えその正体が異界の大妖異であり、信仰に応える知性を永遠に失った異形であっても。
異形の長虫はわずかに頭をもたげた。無顎類じみた口腔で牙が蠢く。頭を向けた方向には、斜面を駆け上がる影があった。長虫はもはやそれが自分を獣に貶めた狩人であると認識していない。ただただ、底無しの飢餓があった。長虫はゆっくりと大地に倒れ込む。地響きと共にその体躯が大地に横たわった。僅かな静寂。そして長虫は、猛烈な速度で獲物に襲い掛かった。
「ギャアアアア来た来た来た!!!」
「走れ走れ!!!振り返るなッ!!!」
イズミ達三人はクレーターの縁を目指して斜面を駆け上がる。だが、長虫は圧倒的な速度で三人に迫って来た。青燐機関車並みの大質量が地面を抉り、醜悪な口腔が岩石を砕きながら一直線に突っ込んでくる。追いつかれる。三人ともそう判断した。動いたのはスズケンだった。
「二人とも!僕に捕まって!」
イズミとテオドアは顔を見合わせた。迷いは一瞬。今更彼を疑うべくもなかった。二人は小さな体にしがみつく。長虫は先端部を持ち上げ、彼らを上から潰しにかかった。
慈悲に満ちた大地よ、
つなぎとめる手を緩めたまえッ!
イルーシブジャンプッ!
緑に輝く風属性エーテルが巻き起こり、スズケンは二人を抱えて弾かれるように跳んだ。長虫のおぞましき口腔が落ちて来たのはその数瞬後である。闇の洞窟を切り裂く一筋の流星はクレーターの縁にぶつかり、三人は廃墟跡にてんでばらばらに転がった。テオドアは感嘆の叫びと共に起き上がった。
「う、うぉぉぉぉ!す、すげぇよスズケンさんッ!」
イズミも身体を起こし辺りを見渡す。長虫はまだ動いていない。そして彼女は大の字で転がるララフェルを見つけ、テオドアと共に駆け寄った。
「スズケンさん今の何?!魔法?!」
緑髪の小さな男は全身が痙攣している。イズミに抱き上げられた彼は無理やり笑顔を作りながら応えた。
「普段の……三倍がんばった、大ジャンプです……!」
「単なる無茶じゃない!あぁもうバカ!」
そして長虫はゆっくりと動き始める。二人は総毛立ち、スズケンを抱えたまま廃墟の方へ駆け出した。おぞましき妖異は全身を蠕動させ、凄まじい速度でクレーターを駆け上がってくる。
「うわあぁぁぁぁッ!イズミちゃんッ!また来た!!!どーすんだよ!!!」
「うるさい黙れッ!いま考えてるんだッ!」
二人は建ち並ぶ廃屋の間を駆け抜け、いくつもの辻を曲がる。背後から轟音。飛び交う瓦礫。まるで引き離せない。行く手を阻む柵。蹴り砕く。跳躍着地。目の前にはオーガ型妖異。
「げぇっ!まだ居やがった!」
「横!こっち!」
イズミはテオドアの手を引き、すぐ横の脇道に飛び込んだ。二人のいた場所を長虫の大質量が通過する。オーガ型は消えた。耳をつんざく咆哮が響く中、二人は遮二無二に通りを走る。廃屋の中から更にオーガ型が這い出て来た。複数体。
「嘘だろ!どこにいたんだよッ!」
「テオドア、パス!」
イズミは目を回したままのスズケンをテオドアに投げ渡し、オーガに斬りかかった。一太刀で三体の首を刎ねる。屋根の上から更にヴォドリガ型が飛び掛かってきた。背後からも小型妖異複数。多すぎる。長虫の咆哮が潜んでいた妖異を活性化させているのでたろうか。
ともかくイズミはテオドアとスズケンを護りながら、ひたすらに斬り、そして走った。それでも長虫は引き離せない。横合いから地響きと破砕音。イズミはテオドアの首根っこを掴み、後ろへ飛ぶ。大質量が通過し、妖異の群れが消えた。
轟音が遠ざかる中、三人は地面に投げ出されたままだ。イズミは己を強いて立ち上がるが、テオドアとスズケンは呻めき、倒れ伏している。彼女は轟音の方向を見た。長虫は洞窟の壁を這い上がり、方向転換している。戻ってくるまで幾許も無いだろう。突っ込んでくる相手の勢いを利用して正面から一刀両断。却下。そんな芸当が出来る《光の戦士》はここにいない。拾った杖の魔法を叩き込める隙は作れるか?戦術がまとまらないまま長虫はこちらに向き直った。
イズミはテオドアを助け起こすが、息は荒く朦朧としている。彼は素人だ。無理もない。スズケンを見る。彼もまた、ようやく槍を杖に立てている状況だ。イズミの神経細胞をエーテルがチリチリと焦がす。——そしてイズミは彼らを思い切り蹴り飛ばし、大きくその場から引き離した。
「なっ……?!」
テオドアは宙を舞いながら、遠ざかるイズミに手を伸ばす。彼女の名を叫んだはずだが、その音は無慈悲なる破砕音に掻き消された。長虫が通過し、彼女は消えた。テオドアは地面に投げ出され、ゴロゴロと転がった末に岩に当たって止まった。痛みを堪え、意を決して顔を上げた。遠ざかる長虫が見える。そしてやはり、イズミの姿はなかった。——足音がした。
「ここまでですね」
スズケンがテオドアの肩を叩き、首を振った。
「あなたは何としても外まで送り届けます。さぁ、立って」
悲痛な感傷を冒険者の心得で塗り潰した声だった。テオドアは長虫を呆然と目で追う。長虫は速度を緩めて咆哮している。スズケンは彼の肩をやや強く肩を揺すり、促した。
「……笑ってた」
「何と……?」
テオドアの脳裏に、消える寸前の彼女の顔が浮かんだ。
「イズミちゃん、笑ってたんだ。すげぇ顔で」
テオドアは懐から弾丸を取り出した。イズミから預かった魔法弾である。テオドアは震える手で弾倉に弾丸を込める。
「……絶対なんか企んでる。イズミちゃんは、まだ死んでねぇ」
がちゃり、と弾倉を戻し、テオドアは銃を構えた。
「だから、俺も諦めねぇ」
テオドアは強い意志を持ってスズケンを見た。緑髪の男は沈思黙考する。冒険者の心得はずっと警告を発している。だが、彼も分の悪い賭けに乗る事にした。畏国の勇者ならそうしたであろうから。
「作戦会議といきましょう」
勇者達は長虫を睨んだ。
◆◆◆
かつてアスタロトと自らを称した妖異は、永劫の果てに得た己の理性を何よりも誇っていた。本能に任せて暴れる事しか出来ぬ下級妖異を従わせ統率し、現生人類の価値観を理解した上で蹂躙する事を至上の喜びとしていた。それを無惨に破壊した狩人を心の底から憎んだ。そして今、大妖異は狩人を認識することすら叶わぬ獣に堕している。なにを砕き、なにを喰らったか、もはや認識していない。ただそこにうまそうなエーテルがあったが故に喰らった。それだけだ。
砕かれた廃屋、誰のものかわからぬ人骨、四散しきらなかった妖異の四肢、正体不明の廃液……。肉の管としか言いようがない極めて単純な内臓の内奥へ、それらは重力と蠕動により、緩やかに押し流されて行った。完全なる闇の、奥へ奥へ。そして全てはエーテルに分解され、妖異に取り込まれる。例外はない。——そのはずであった。
腸壁の窪みに滞留していた正体不明の赤い廃液が突如膨張し、弾けた。中から現れたのは、鱗を備えた全裸の女。イズミであった。
「……ぶはぁッ!ううッ、ゲホォ!」
イズミは横たわったまま激しく咳き込み、びちゃびちゃと赤い廃液を吐瀉した。どうにか吐き切り、ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返す。灯りひとつない地獄のような完全な闇の中に彼女はいた。死んだのか。だがイズミの肌は粘ついた肉壁の感触を伝えてくる。地獄ではない。ここは長虫の腹の中だ。
「ふ、ふふふ……あはははは!」
イズミは呵々と笑った。賭けに勝ったのだ。あの拾った杖のソウルクリスタルには、猛毒や呪詛、変身魔法の類が詰め込まれていた。衝突に直前、彼女は《軟体化》の魔法を自らに施したのだ。スライムの如き軟体と化した肉体は、轢殺される事なく長虫に呑み込まれ、体内までイズミを運んだのである。
「私の勝ちだよ、アスタロト!」
イズミは仰向けに倒れたまま、両の腕を持ち上げ剣気を込めた。ぼう、と両腕が輝く。刀が無くとも、力を込めれば四肢も凶器と化す。肉壁を斬り裂き、思う様蹂躙してやる。イズミが内なる憎悪を解き放たんとしたその時、首に何かが巻き付いた。ぐい、と思い切り締め上げられる。
「あぐッ」
イズミは呻めき、首に絡みついた何かを掴んで抵抗する。巻きついてきたそれは柔らかく、しかし強靭な筋肉の塊だった。触手。触手の感触だ。背中合わせの肉壁が蠢き、粘りつくような水音が響く。裸のイズミに次々と触手がまとわりついてきた。
「ちょッ……嘘でしょ?!」
イズミの脳裏に砂都の春画がよぎる。触手に縛り上げられた裸体の彼女はまさしくそれそのものだった。だが、ここは欲望を満たす都合の良い絵物語ではない。触手はイズミを弄ぶ事なく、夥しく並ぶ吸盤状の器官から、獲物のエーテルを吸い上げ始めた。
「うッ!うぁぁぁぁ……ああッ……!」
イズミは思わず背中を反らし、呻いた。身体の奥から力が抜き取られていく。激闘に次ぐ激闘の果てに残された最後の武器、闘争心が消えていく。それは恐怖でしかなかった。
「畜生……やっぱ、ダメなの……」
イズミは首を締め付ける触手に抗った。抗いきれない。締め付けは強くなっていく。
「あぁ……いや……いやだッ……!」
祈りは肉壁に染み込み、沈んでいった。
◆◆◆
——置いていかないで。雨の中でテオドアが助け起こしたイズミは弱々しい声でそう呟いた。普段の冷徹で人を寄せ付けない姿からは想像も出来ない、孤独を恐れる少女の声だった。うわ言だろう。しかし、彼はそれを知った。命を張る理由はそれで充分だった。
テオドアは廃墟の間を駆け抜け、長虫の元へ迫る。結局のところ作戦は単純だった。魔法弾と槍術奥義の同時攻撃。イズミが何を企んでいるにせよ、こちらが動けばそれに乗じるはず。それがスズケンの見立てだった。
長虫は巨体をゆっくり蠕動させ、緩やかに移動している。すぐそばまで迫っているテオドアには見向きもしない。ただの素人である彼の弱々しいエーテルなど、長虫は餌と見做していないのだ。付け入る隙はそこだ。テオドアは長虫まで25ヤルムの距離につけた。銃の射程圏内であるが、それは戦いに身を置く冒険者の基準だ。彼の場合はもっと近付かねばならない。
テオドアは廃屋の屋根に上がり、距離を稼いだ。崩れた大理石を飛び渡り、15ヤルムまで肉薄する。ぶよぶよとした長虫の体表に、うっすらと毛が生えているのが見えた。生理的な嫌悪感が込み上げてくる。長くは耐えられない。彼は銃を手に取り、掲げた。狙いは遥か上に位置する長虫の頭部。
照星と照門をあわせ、おぞましい頭部を狙う。震えている。想いだけではどうにもならない恐怖がそうさせた。一瞬、テオドアは左方向、自分の来た道を見返した。闇が支配し、何も見えない。だが、その向こうにはスズケンが待機している。テオドアの初撃がどこに当たろうと、必ずそこを貫くと胸を張った小さな勇者が。
テオドアはぎゅっと目を瞑り、意を決して刮目した。照星の先に長虫を捉える。長虫が、僅かに彼を見た。
「うッ……うぁぁーーーッ!喰らいやがれッ!!!」
引き金が引かれた。乾いた銃声と爆発音が同時に響き渡る。弾丸は過たず長虫の頭部を捉え、爆炎魔法を炸裂させた。爆炎は太陽の如く輝き、衝撃で仰け反った長虫を闇の中に浮かび上がらせる。それを標べに、勇者は飛翔した。
閃光よ、天より響き走れ!
外しはしないッ!天鼓雷音稲妻突き!
長虫の頭部を、流星が貫いた。
◆◆◆
二度の衝撃。イズミを絡め取っていた触手が急激に弛んだ。鱗肌の女は手放しかけた意識の尻尾を掴み、首元の触手を引き剥がす。ばたばたと手足を振り、横に転がって拘束を脱した。身を起こす事すら叶わない肉壁の檻の中で、イズミはぜぇぜぇと呼吸を整える。苗床で終わる末路は潰えた。
「ふ……ふふ……ふふふふ………」
イズミはまたも笑った。戦の高揚ではない。粘液まみれの顔から雫が零れ落ちた。何が起こったかはわからない。だが、誰がやったのかはわかりきっていた。あの二人が何かやったのだ。青葉イズミはまだ終わっていないと、信じてくれたのだ。
「……バカ。皆、なんで私、私なんか」
娘はただ嗚咽した。——やがて肉壁が大きく揺れ、粘ついた水音が再び聞こえてきた。長虫は未だ健在だ。娘は大きく深呼吸し、顔を拭う。狩人が帰還した。
狩人は冒涜的な呪文をぶつぶつと唱える。正真正銘、最後のとっておきを使う時が来た。紫色の短髪がぞわりと逆立ち、全身の鱗がぱきぱきと音を立て始める。そういえばこの姿を誰かに晒すのは初めてだと、イズミは今になって気が付いた。構わない。そう思えた。
◆◆◆
どむ、という衝撃と共に、長虫の胴体が膨れた。頭に風穴を開けられ、夥しい血を撒き散らしてなお暴れようとした長虫が、足を止めて呻いた。どむ、どむ、どむ。衝撃が連続し、上へ上へ登っていく。やがてそれは螺旋を描き、分厚い表皮の内にある肉を凄まじい勢いで抉り取っていった。
《アッ!?アギャッ!アギャギャアアーーッ!!?》
未曾有の激痛に長虫は天井まで伸び上がり、痙攣しながら絶叫する。スズケンを拾い上げたテオドアは巻き添えを避けて必死で走った。そして見た。長虫の頭部が熟れた柘榴の如く弾け飛び、血と臓物の華が咲くさまを。その只中に舞う、悪鬼のような女を。
「イズミちゃん……?!」
風貌は間違いなくイズミだった。だがその角は捻れ肥大化し、全身に広がった鱗は鎧とみまごう程に重なり合っている。ドラゴン族を思わせる尾は二股に分かれ、四肢に至っては蛮神の如き禍々しい鉤爪を備えていた。人ならざる異形への転身。かつての戦いでイズミが会得した恐るべき邪法であった。
悪鬼はくるくると回転し、頭部を失った長虫を眼下に見た。もはや死に体の残骸。だが、まだだ。完全なる止めを刺すには心核を抉り取り、焼き滅ぼさねばならない。イズミは赤く燃える瞳にエーテルを込める。渦巻く闇を、捉えた。
「今度こそ……これで終わりだッ!!!!」
イズミは空間を蹴り、真下へ加速した。振り上げた鉤爪が長虫の胴体にぞぶりと喰らい付き、おぞましき肉を抉った。そのまま勢いに任せて隕石の如く地面に落着。巨大なる長虫は薪の如く縦一文字に両断され、ゆっくりと地面に倒れていく。そしてそれが落着するより早く形象崩壊し、跡形もなく爆発四散した。
通りを埋め尽くす爆発四散エーテルをかき分けてテオドアとスズケンが駆けつける。そして彼らは見た。砕け散った石畳の上に、妖異の核を握りしめて立ち尽くす悪鬼と化した仲間を。
《オォォ……呪ワレヨ……呪ワレヨ……》
「もう呪われてんだよ。うるせぇな」
大妖異だったものが放つ呪詛を、イズミは身も蓋も無く切り捨てた。巨大な鉤爪に囚われた闇の渦を、黒炎が焼き焦がし始める。妖異の核を確実に滅ぼす禁術。
「最期に教えろ。親玉はどこにいる」
魂への尋問。逃れることは出来ない。
《オオ……偉大ナル……アノオ方……ハ……》
アスタロトの魂が、自我が焼滅していく。
《我ラ……ト……共ニ……》
「……なんだって?」
イズミは反射的に視線を上げた。僅かな光に照らされた洞窟の壁。そこに不自然な影があった。テオドアやスズケンのものではない。彼らも訝しんでいる。やがて影は三人を見下ろすように天井まで伸び上がり、捩じくれた角を生やした。そしてそれはあっという間に消えてしまった。消える刹那に凄惨な笑みを残して。イズミは髪を逆立て、激昂した。
「うぁぁぁぁぁッ!!!!」
アスタロトの核を握り潰し、イズミは叫んだ。邪法の装甲が崩れていく。時間切れだ。
「黒山羊野郎ッ!!!逃げるなッ!!!」
がしゃり、がしゃりと異形の装甲が崩れ落ちる。それでもイズミは虚空に手を伸ばし、叫ぶ。
「あとはお前だけだッ!!!絶対に!!!絶対にお前をッ……!!!」
イズミの膝が抜けた。装甲が失われたアウラ・レンの娘は、ぐらりと前のめりに倒れる。
「イズミちゃんッ!」
地面とぶつかる直前、走り込んで来たテオドアが彼女を腕を掴んだ。自らの上着で素早く彼女を包み、なおも叫ぶ彼女を抱き止める。
「イズミちゃん!大丈夫だ!もう終わった!」
「違うッ……!!!終わって、なんか……!!!」
錯乱したイズミは滅茶苦茶にテオドアを殴りつける。だがその殴打はあまりにもか弱い。妖異の屍山血河を踏み越えて来た狩人の姿はどこにもなかった。
「あいつを……あいつを殺さなきゃ……!!!わあぁぁぁ!!!」
テオドアは泣き叫ぶ彼女を、ただひたすらに抱き止めた。スズケンもまた彼女の傍に立ち、その背を撫でる。全ての魔なる者が去った奈落の底で、娘は泣き続けた。
◆◆◆
エピローグ
竪穴をよじ登り、三人はようやく洞窟の外へ出た。既に夜は明け、眩しい朝日が彼らを迎える。木々に残る雨の雫は陽光を受けてきらきらと輝き、ぬかるむ大地はそこかしこに水溜まりを残していた。
「で、あの猟師小屋はどっちだっけ?」
テオドアは辺りを見まわしながらスズケンに問うた。日に焼けた精悍な上半身が露わになっている。
「あっちですね。そこまで距離は無いはずですよ」
スズケンは槍で林道を指し示した。視界の端に殆ど裸のイズミを捉えてしまい、彼は悟られぬよう目を逸らす。あらゆる装備を失ってしまったイズミの為、スズケンはテオドアの上着を衣服とサンダルに作り替えた。
とはいえ今の彼女の装いは砂都ならかろうじて見逃される程度であり、森都なら死罪すらありえる。猟師小屋に残して来た荷物を使えば法に触れない服が作れるという事で、彼らはそこへ戻る事にした。転移魔法を使うのはそれからだ。水たまりを避けながら、一行はゆっくり林道を進む。
「イズミちゃん、その……大丈夫?」
テオドアは少し前を行くイズミに問うた。イズミは尾を翻して振り返り、後ろ歩きしながら答える。
「あぁ、うん。大丈夫。……情けないとこばっか見せちゃったね」
イズミはばつが悪そうに角を掻いた。
「色々ありがと。おかげで仇を一匹、消し炭に出来た」
彼女は握った拳を感慨深く見つめながら、続ける。
「黒山羊の妖異、どっかで噂でも聞いたら教えて。そいつで、最後なんだ」
テオドアとスズケンは黙って頷いた。助かるよ、とイズミは礼を述べて前を向いた。水たまりを避けて、娘はぴょんと跳ねる。
「……あの姿のことは」
イズミは振り返らずに呟く。
「内緒にしといて欲しいかな。頼むよ」
鰐のような太めの尾が、ぷいと跳ねた。
「あぁ、ソフィちゃんには黙っとくよ」
「見なかった事にします」
イズミは首を巡らし、二人を見て笑った。
「……ありがと」
イズミはそのまま小走りに駆け出し、少し先の三叉路で立ち止まった。テオドアとスズケンはゆっくりと後を追った。鳥の声がどこからか聞こえる。
「……なぁ、スズケンさん」
「はい」
テオドアは重々しく続けた。
「イズミちゃん、消し炭にしたって言ってたけど……違うよな?」
「えぇ、その通りです。妖異の核は彼女に取り込まれていきました」
「……だよな?」
二人は足を止めた。認識がずれている。
「この事は、内密に」
「俺はどうすればいい?」
「あなたは、変わらずいつも通り過ごしてください。ここからは冒険者の領分です」
「……わかった。イズミちゃんを、頼むよ」
「善処します。ソフィアさんには、折を見て僕から」
二人は頷き合い、再び歩き出した。三叉路で待つイズミが二人に気が付き、声を掛ける。
「なに?なんか話してなかった?」
イズミは屈託なく微笑んでいる。テオドアはそんな彼女の姿にこの上無い恐怖を感じた。だが彼は湧き上がる恐怖をおくびにも出さず、努めて明るく振る舞う。
「いや、スズケンさんがイヴァリースイヴァリースってうるさくて」
「そんなに言ってないでしょう。すごく自重したんですよ今回は」
「あー、ほんとスズケンさんってばイヴァリースの事で頭がいっぱいなんだね」
イズミはスズケンの前にかがみ込み、胸を寄せながら悪戯っぽく笑った。
「私の裸を見てもずっとノーリアクションだよね。自信無くしたかも」
「んなッ!何を言うんですか!いけませんよ!!!」
スズケンは顔を真っ赤にして喚いた。イズミはけらけらと笑いながら立ち上がり、三叉路を指差した。
「で、どっちだっけ」
「右です!右!」
「オッケー、じゃあさっさと行こう」
イズミは踊るように駆け出す。テオドアとスズケンもそれに続いた。三人の通り過ぎた道をアンテロープの親子が横切り、あとは黒衣森の静謐だけが残された。
【紫は雨に烟る 了】
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エンディングテーマ
チャットモンチー / 染まるよ