紫は雨に烟る2 - Izumi Origins EP3
闇夜に降り注ぐ雨粒が木々の葉を叩き、ばちばちと音を立てる。泥濘を進むイズミの視界は限りなくゼロに近い。濡れた体からは熱が奪われ続けている。だが彼女は決断的に歩を進める。燐光の輝きを宿す瞳が闇の先を見据える。彼女の超自然的な感覚が告げる。樹々を向こうに「いる」のだと。
雨粒を拭い、夜目を凝らし、イズミは不快な感覚目掛けて駆け出した。右掌をくるりと回し、袖の中から飛び出した匕首を握る。岩の上に座り込んでいる小鬼のような妖異の影。インプだ。イズミは雨に紛れてその背後に立ち、一撃で終わらせた。霧散した妖異の黒いエーテルがイズミの角を掠め、消えていく。不快な感覚は告げている。まだ「いる」と。
撒き散らされたエーテルを嗅ぎつけた別の個体が闇の中から近付いてくる。イズミは直立して動かず、雨に打たれるがままだ。嫌な感覚が近付く。笑い声。呪いの言葉。惑わされてはならない。左後方、肌が粟立つ。イズミは左腕を振り上げる。衝撃。闇の中から飛び出してきたインプがその牙をイズミの左腕に突き立てていた。
だがインプの舌に血肉の味は齎されない。鋼。袖の下に仕込まれた手甲。インプがそれを理解する間も無くイズミは左腕を引き戻し、インプを泥濘に叩きつけた。そのまま匕首で数度刺突。心臓を破壊し、インプは四散した。更に妖異が迫る気配。イズミは匕首を感覚に任せて振るった。短い絶叫。両断されたインプが姿を現し、四散する。渦巻く気配は消えた。
イズミは眉ひとつ動かさず匕首を収納し、再び意識を集中させる。薮の向こう、離れた場所に気配を感じる。不快で危険な、本能が忌避する感覚。生きる為には離れなければならない場所。だが、イズミはそこに行かねばならない。狩らねばならない獲物は、そこにいるのだ。
ごう、と風が吹いた。雨粒が強くイズミの顔を打ち、彼女は思わずよろめく。倒れぬよう足を踏ん張った目の前に、差し伸ばされた腕が見えた。使い込まれたガントレットに鎧われた男の腕。イズミの心臓がどくんと脈打つ。瞬き。鎧の腕は一瞬で血に染まった。更に瞬き。腕は消えていた。
イズミは唇を噛み締め、怖気に抗う。今の腕が誰であるか思い出す前に、思考を彼方の獲物へ向けた。何故自分が泥に塗れて刃を振るっているのか。元凶は全て奴等のせいなのだと、己の憎悪を湧き上がらせた。イズミは立ち上がり、闇の中を更に駆けた。仕留め損ねた仇敵の元へ。
散発的に襲いくる低級妖異を始末しつつ、イズミは不快な感覚が立ち昇る場所に辿り着いた。樹々が途切れたその場所にはぽっかりと大きな竪穴が空いている。すり鉢状の底から横穴が続く洞窟の類だろう。黒衣森には都市の暮らしを良しとせず、未だに穴蔵生活を続ける黒影の民が存在する。彼らの住居跡など、魔物や妖異の格好の隠れ家だ。手負いの獣であれば尚更である。
しかし、その竪穴を護るように立つ大型の影がある。牡牛の角と裂けた口、そこから覗く鋭い牙、背には蝙蝠の羽、そして腕は鉤爪の異形。身の丈にいたっては背を曲げた姿でもイズミの倍はあるタウルス型の妖異だ。これを排除しない限り、竪穴への侵入は望むべくもないだろう。
イズミは茂みの中で己の脇腹に触れる。鈍い痛み。逃げる理由にはならない。イズミは腰に帯びた刀の鯉口を切ると、意を決して茂みの外へ躍り出た。雨は依然強く降り注いでいる。酷いコンディション。闇の中に妖異の目が光った。イズミは懐から手のひら大の球を取り出し、無造作にそれを投げる。球は超自然の斥力によりふわりと浮かび上がり、二者の頭上で輝きを放ち始めた。簡易照明クロックワーク・サン。イズミの投擲した苦無が口火となった。
《ウォォォォ!!!》
妖異は無数の苦無に意を介さず、かざした腕で刃を受けながらイズミに向かって突進する。あっという間に鉤爪の間合いだ。妖異は太い腕を振りかぶり、イズミに鉤爪を振り下ろした。刀を構えたイズミは臆さず前転を打ち、妖異の側面に回り込む。妖異の腕から抜け落ちて宙を舞う苦無が、ゆっくりと回転しながら雨粒を弾くのが見えた。イズミは横薙ぎの斬撃で妖異の脚を狩りにいく。
だが——想定していた血飛沫は上がらない。妖異は瞬間的に飛び上がり白刃を回避したのだ。恐るべき反応速度。イズミは刹那の合間で舌打ちし、防御の構えへ。果たして飛んできた妖異の一撃を刀で受け止める。彼女の骨肉が上げる悲鳴は気合で抑え込まれた。妖異は獲物が逃げる事を許さず、更に追撃を見舞う。
凄まじい金属音が戦場に響く。イズミは襲い来る致死の鉤爪を臆さず弾き返し続けていた。体格で劣るイズミが踏みとどまれているのは、防御にあわせて剣気を刀に集束させるひんがしの国由来の技術「弾き」にある。彼の国の忍者が重鎧や大楯も無しに数多の魔物と渡り合えるのは、ひとえにこの技術があってこそだ。孤独な闘いを強いられたイズミはこの技術を磨き上げて来た。文字通り、死に物狂いで。
右からの打ち下ろし。イズミは刀を合わせて弾く。舞い散る火花。剣気で強化された体幹は依然揺らがない。だがその衝撃全てを打ち消す事は出来ず、ダメージは骨身に蓄積されていく。攻めに転じなければ、いずれ崩され死ぬであろう。更に左から横薙ぎ。速すぎる。イズミは肋骨の無視出来ない軋みに歯噛みし、泥濘を蹴って後ろに跳んだ。鉤爪は空を切る。イズミは雨の中をよろけながら下がり、片膝をついた。極限の集中が途切れ、疲労が一気に彼女の心身を襲った。
直上のクロックワーク・サンは舞台照明めいた光で鱗肌の女を照らしている。イズミは肩で息をしながら光を振り仰ぎ、それから目の前の迫り来る敵を見た。知性無き暴虐な突進。単純な攻撃。ゆえに恐ろしい。イズミは依然片膝立ちのままだ。妖異は両手を振り上げ、矮小な獲物へ無慈悲に振り下ろした。イズミは己が惑星の核と一体化するイメージを練り上げ、あらん限りの剣気を刀に込める。妖異の全体重を乗せた一撃にイズミは渾身の弾きを合わせた。着弾の凄まじい衝撃がイズミの全身を貫き、足元の泥濘に蜘蛛の巣めいた余波が走る。
「がッ………」
両腕で刀を支えるイズミだったが、ついに耐えきれず血反吐を吐いた。練り上げた剣気が綻びていく。持って数秒。妖異もそれを感じ取り、ニヤリと口を歪ませ、鍔迫り合いに更なる力を込める。イズミは再び血反吐を吐く。正しく発声するために。
「クロックワーク、下がれッ!」
直上の照明クロックワーク・サンは所有者の音声エーテルを認識し、その位置を急降下させた。所定位置は使用者の目の高さ。だが当然そこには妖異がいる。妖異の背にぶつかった玩具の照明は、火花を散らして無惨に砕け散った。その火花を、中に仕込まれた魔法弾に伝えながら。——妖異の背面に爆炎魔法が現出した。
《グォォォォォッッ?!!!》
妖異は何が起こったか分からず、鍔迫り合いを投げ出して大きくのけ反った。その足元のイズミはニヤリと笑い返し、残った剣気を切先に束ねた。闇の中でも、狙うべき場所ははっきりと見える。イズミは剥き出しの喉目掛けて片手突きを叩き込んだ。
《イギャァッ?!!!》
妖異の叫びに構わず、イズミは刀の柄頭に掌を当て、更に強く押し込む。刃が背面へ貫通した感触が伝わって来た。
「………じゃあ、ねッ!」
イズミは柄を両手で強く握り、渾身の力で捻り切った。
《ウギャアァァァァァッ!!!》
妖異タウルスは黒い血を撒き散らしながら霧散した。撒き散らされた血も強い雨に流され、消えていく。イズミは斬撃を放った体勢で残心していたが、やがて妖異が滅された事を確信し、立ち上がった。身体中が痛む。呼吸も未だ荒く、体力の消耗が激しい。これ以上、本命以外に拘っている余裕など無かった。一刻も早く、大妖異アスタロトを——。イズミがそう誓って一歩踏み出した時、竪穴から黒い影が這い上がって来た。
牡牛の角と裂けた口、そこから覗く鋭い牙、背には蝙蝠の羽、そして腕は鉤爪の異形。身の丈にいたっては背を曲げた姿でもイズミの倍はある——タウルス型の妖異。二体目だ。空に稲妻が走り、邪悪なシルエットが浮かび上がった。
「………そんなに私が怖いの?アスタロト」
イズミは悪態を吐き、八相の構えを取った。使用可能な暗器で次の戦術を組み立てる。だが、痛みと疲労で頭が回らない。イズミは無意識のうちに後退る。本能的な恐怖。
脳裏に誰かの声がする。俺に任せろ。お前を護る。大丈夫だ。通り過ぎていった人の声。夢と現が交錯するなかで、妖異はイズミに向かって走り出した。
——逃げろ
——私なら大丈夫
——あとで落ち合おう
——仲間だろ
イズミは震えていた。戦術が思いつかない。こんな時に助けてくれた誰かはもういない。今ここには、誰も。——英雄すらも。
大気満たす力震え、我が腕をして閃光とならん!
無双稲妻突き!
暗黒の森に力強い男の声が響き渡った。イズミの意識が一気に現実へ引き戻される。その瞳に映ったもの。それは妖異の胸部から飛び出した鋭い槍の穂先であった。
心臓を一撃で破壊したであろうその穂先が引き抜かれ、妖異はイズミの方へ倒れてくる。その途中で肉体は形象崩壊し、霧散した。稲妻が閃き、その光が戦場に現れた小さな影の姿をあらわにする。それは槍を携え外套を纏った緑髪のララフェルであった。
「ご無事ですね。良かった」
落ち着いた声色だった。突然の事にイズミは何も反応を返せない。言葉に詰まっているうちに、茂みから更にもうひとりの男が現れた。
「イズミちゃーん!?あっ、無事なんだな!さっすがスズケンさんだぜ!」
明るい声色のヒューランの男は外套を抑えながら竪穴の方に走っていった。手にしたランタンをかざし、穴の中を改めている。
「もうヤベーのはいなさそうだし、とりあえずこん中入ろうぜ!な!」
「ちょっ………ちょっと、そこは!」
イズミの制止も虚しく、ヒューランの男は竪穴に飛び降りていった。ララフェルの男——スズケンも竪穴へ歩みを進める。
「テオドア君もああ言ってますし、とにかく一旦雨宿りしましょう。いいですね?」
スズケンの言葉には有無を言わさぬ迫力があった。イズミは逡巡したが、結局のところ選択肢は進む一択しかない。イズミはスズケンに続いて、竪穴を降りていった。
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