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制作スタンスとそれにまつわる話

はじめに

 まず、長い。文章が長い。疲れないように、わかりやすく落とし込むように、短くフレーズを切りながら淡々と話す。ポツポツと言葉をゆっくり捻り出していく。この調子だと前置きも長くなってしまいそう。自分の写真のルーツを話す。大学を卒業したら一度曲芸から手を引く。またいつかどっかのタイミングで始められるように。そのために今から大体残す。(このくらい適当にする。)最後まで読んでくださる方は一握りだとは思うけど、お付き合いいただけると嬉しいです。

こんな感じで、結構遠くにオチがあります。

結果に対する感覚

 同い年でこういった話をする人が本当にいない。そんな時、文字媒体に頼ることしかできないことも、虚しい気がする。何もかもが欠如している。一生ポロポロと欠け続ける、一種の呪いのように感じる。ただ、その呪いを利用した上で仕上げたものを展示した時、皆が「くらった!」って顔をする。僕はその瞬間が好き。そこには共感とか驚きとか妬みとか色んな感情がうずまいている。広い会場でそれが反響し広がっていく感覚も、狭い会場でそれが乱反射する感覚も全て自分のものにできることは、一種の快感に近い気がする。僕にとって制作意図というものは呪いに近い。(呪いと言えば呪術廻戦。ついに連載終わりましたね。芥見先生ありがとう。)

ものを作っている時は、だいたいニヤニヤしている。

確立された気持ち

小学校五年生の頃からずっと、自己と他者の境界線について考えることが多かった。今でもそうだと思う。友達に対しても、好きな人に対しても、血が繋がっている人に対しても、それらはあくまでも「他者」というものに括られると思う。これに対する明確な理由はわからない。現段階では「制作する上ではそっちの方が意外と都合が良い」ことを理由にしている。
 この双方を守ることのできる唯一の方法は「互いに距離感を掴むこと」だと思う。周りはいとも簡単にそれを掴んだけれど、自分はそれを理解するまでに時間がかかった。今でもわからない。どこまで踏み込めばいいのか、どこから先がいけないのか。この繰り返しをずっとしていた。

集団行動もずっとそばで見ていることが多かった。
自分がそこにいる想像すらできなかった。

高校の頃、写真に出会った。カメラはLUMIXのGH5。初めてのミラーレスカメラ。第一印象は最悪だった。例えるなら、不特定多数の他者の領域に勝手に土足で入っていくような。その時「こいつ境界線デストロイヤーやん…😭」って思ったことは今でも鮮明に覚えている。
 けれども、ファインダーを通して友達を写した時、そこにピントを合わせるために必要な距離があったことに気づいた。ピントがあった時、ぼやけていた相手のパーソナリティが少しずつ見えてきた。僕が求めていたものの正体に近づいた気がした。今まで他者の姿が見えなかったのは、前傾姿勢のせいでうまくピントが合わなかったからだと悟った。相手を理解したいという自分の気持ちがスッとハマっていく感じがした。

思い返せば、自分を撮りたいと思えたのも
これがキッカケだったと思う。

大学に合格した。その途端、突発性難聴になった。珍しく自分の体がタイミングを見計らってくれたみたいだった。医師からは「1ヶ月入院しないとな〜」と言われた。コロナ第一波で半年高校がなくなって、またさらに退屈が始まってしまう。と思いきや、10日ほどで完治した。どうやら発見が早かったらしい。ただ、高校には「1ヶ月休みます」と伝えている。残りの3週間は遊びまくった。

まず、カメラを譲り受けた。Nikon D5100とレンズキット。初めての一眼レフカメラ。今まで全自動で撮っていたからか、思った写真は撮れなかった。だから、全部マニュアルにした。ISOとシャッタースピードとF値をこの時初めて理解した。出かける時、必ずカメラを握った。使い始めると意外とすぐに覚えた。体感は裏切らない。

次に、パソコンを買ってもらった。大学合格祝い。スペックはM1 Macbook Air。大学推奨。今noteを書いているのもこれ。物理的な重量を軽減できるならとこれにした。アプリの重さくらいは許せる。

そして、カメラ用のカバンを買った。通販サイトで見つけた。見覚えがあった。科捜研の女に出てきた犯人役が持っていたカバンだった。おもしろさで買った。2,500円。衝動買いした。(結果、三年使った。)
 あっという間に3週間がすぎて、高校の寮に帰ることになった。青山高原はすっかり寒くなっていた。

高校に帰ってきたら
なんか机の並びがギザギザになってた。
当時はフォーマットをいじるのが好きだった。
余白の作り方みたいなのは、ここである程度身についたと思う。

↓高校卒業後の話はココ↓


 大学に入学した。すぐにコロナ第三波に入った。極端に他者と関わる回数が減った。いや、ここは「身内」と「他者」の方が適切かもしれない。マスクをすることでそれを緩和することはできた。しかし、表情の見えない関係性なんて、まるで情報の波に踊らされているような感覚に思えた。相手の視線、表情、口パクパク、目パチパチ…。自己と他者を切り分ける重大な判断要素から二つ切り抜かれただけでも、自分にとっては大きな負担だった。マリオブラザーズのプレイ中にBダッシュが反応しない、三段ジャンプできないなどの感覚に近い。致命傷どころの話ではないかもしれないが、僕にとってはこれくらい重大なことだった。

朝六時の東京駅。
他者がいない日常が新鮮すぎて
逆にそこに存在したい気持ちになった。

 大学三年。コロナ禍が去った。マスクのない世界に少しづつ戻っていく感覚があった。マスクがある生活も別の普通なんだと感じた。マスクがある世界とない世界は実は同時並行で時間を進めていて、僕たち人間がそこを反復横跳びをしているだけなのかもしれない。そんな妄想を膨らませている。
 他者とは関わりづらかった。急にマスクが外れたことで、合わせたピントがまたズレた感じがした。カメラに出会う前と正反対の姿勢。ジリジリと後退りする感覚。「また振り出しに戻ったのか」と思ったが、大きくなるはずのピントのズレが、少しづつ小さくなっていた。確かに進んでるんだと感じた。無意識だけれども、確かに他者にアプローチをかけ続けていた。自分がどういう人間なのかを確認するつもりで進んでいた。
 見える不自由から解放されたことで、様々な物事が一気に交差するようになった。自身と他者との間にあったものがこれまで以上に薄くなっていくように感じた。しかし、どうしても何か見えないものに阻まれているように感じることが多くなった。目の前でブラックアウトフリーが起きていた。確かにそこで相手としっかりと向き合っているはずだった。そのストレスから吃音になった。音を介して人に伝える難しさを感じる日々が始まった。

それから、吃音が突然治った。大学四年になる前のことだった。春休みが始まってから2週間が過ぎた頃。気づけば、いろんな出会いがあったと思う。同じ悩みを抱える人、毎日のように電話をくれる友達、自分の悩みを外に出すアーティスト仲間、自分の心を開くことのできる唯一の人、などなど…。お互いがお互いに持っているものを吐き出せる居場所をくれたような、そんな時間だった。今はあまり会うこともなくなってしまった。けれども、あの時間があったからこそ今少しだけ生きやすくなったと、確かにそう思える気がする。『感謝』とかそういう言葉だけでは言い表せないような。『当たり前』でも『ありがたさ』でもなんでもない。ただ、間違いなく自分の人生の一部になっている。そういうもの。自分に必要なものを頂いた気がする。

そして、今に至る。結局、考えていたものの答えは見つからない。ただ一つわかったことは、別に明確にする必要もないということ。ピントが定まっていても、ボケていても、自分が目にして感じた事実は変わらない。素直に受け止めて飲み込んで思うままに吐き出せればそれでいい。そこにパーソナリティが含まれるのなら多少の不器用さも愛したいと思った。『個性』『オリジナリティ』『らしさ』なんていうのはこうやってできるのかもしれない。


今までの作品(境界シリーズ。今名付けた。)

 これまでのルーツの中で発表した作品をちらほら出していく。ここから、今までの作品を載せていく。時系列は最初だけしか守らない。フイルム現像と同じ。最初だけは大事にする。
 文章なのに謎に緊張する。なんか、すごく、なぞに、緊張する。

①大阪芸術大学写真学科一回生展「毎日」

 自己と他者に関連したもので最初に発表した作品はこれ。大学に行くまでの通学時間を利用して電車の中で写真を撮ったものだ。様々な乗り物の中でも、電車というものはものすごく境界線がわかりやすいものだと思う。一両の中では、それぞれできることが多い。つまり、そこで何をしているかという点ではわかりやすくパターン化されている。そこに他者同士が群れを作り派閥でわかれているような。一両ごとに、その座席ごとに、そんな境界があるように見えてくる。その時は気づくこともなかった。だが、僕にとって人を写すということは他者の領域を意識するための要因だったのではと考える。


②初個展 「I was」at Gallery F16

 自己と他者に関連したもので次に発表した作品。ここでは、自他の境界をうまく分けらなかった。加えて、自身が「異質なもの」にしか見えなかった高校時代の懺悔を作品展で煮沸するという。いわゆる一つの儀式のようなものを取り行った。「当時は分からなかったことが、この歳に成ってやっとわかった」みたいな経験をしたことはこれを読んでいる人にとっては記憶に新しいと思う。
(というか、ここまで読んでくださって本当にありがとうございます😊)
実際に、僕自身もこれを感じることは多い。当時、同時進行で進めていた作品(次の作品で出てきます笑)があり、それについて考えていることがきっかけで生まれた作品。方向性は全く真逆に行った。次に紹介する作品が「未来に対する疑問」。これに対して、I wasは「過去の自己否定」から始まっている。そんな過去の気持ちを開示し、周囲に認知されることで一つ赦されるのではないかと感じた。宗教でいう「巡礼」のようなものを能動的に始めた最初の作品になったと思う。


③大阪芸術大学選抜展NEXT「Repel」

 コロナ禍に入ってからずっと撮り続けた世界。相手との境目が一気に分厚くなって、距離感も一気に遠くなったと感じた。「何かを伝える」ことが一番低迷した時期だったと思う。不自由の中にある自由さえも閉じ込められてしまった感じがした。マスクをつけて歩いている人は、どこか苦しげだった。しかし、マスクをつけることで自己のコンプレックスを他者に見られないという大きな武器になったと思える。
 人それぞれで、自己と他者を切リわけるために一番大切にしていることは異なる。しかし、マスクを利用するという義務のせいで自分を見失った人は多かったと思う。


④美術研究会アート・ラボ なんかええやんしらんけど展「青雨」

 写真の仕上げ技法の「サイアノタイプ」というものを使用。紙に塗布した感光材料に紫外線を当てると青くなる。ここに雨の日常を投影した。幼少期の頃から、青色=水の色という認識があったのは読者の皆もそうであると思う。塗り絵で海や雨つぶが出てきた時は、それを必死に青色で塗りつぶしていた。といった感じで、水(青)を利用して撮像を処理するという二面性を用いることができるという点でこの技法は最適だと思った。
 雨の世界は淋しく感じる。彼らは傘をさす。肩幅ほどだが、あらゆる降り注ぐものから身を守ることができる。そのドームに光る半透明の仕切りは、まるで目に入れたくない景色を拒んでいるように見えた。特定の他者のみならず、さまざまな物事をフィルタリングして見ているように見えた。展示した作品も、その球体だけは染まることを無視しようとしているように見える。コロナ禍に感じた対話でのコミュニケーションのやりづらさとは、また別の物を感じた。(それもまたいいよね〜。しらんけど。)


見つけたもの。それと、これから。

 写真表現を初めて四年。自分の負の部分を肯定するだけでなく、そこから前を向けるようになった。写真家のハービー先生も「写真は本来、ネガをポジに変える作業だから、ネガを知っている君は強くなれると思う。」と言ってくださった。僕は素晴らしい手段に出会えたと思う。その人が扱うことで、その者のネガな感情さえもポジに変えてしまうような。人それぞれ感じられることは違うと思うけれど、僕は写真というものがそう思える気がした。
 自分の思ったことを伝える時、言葉足らずなことが多い。(この記事を書いているときも主語が抜けていたりしていた)今まではそれを埋められるものが無かったけど、写真で伝えられるようになった。写真は文字と密接な関係があると思う。お互いに助けられている。自分が作り出したものと向き合っていく。この手段を知れて、多少は生きやすくなった気がする。自分が求めるものが何かはまだ明確になってはいない。それでも、手に入れたいくつかのキーワードを持ってこれからも前に進んでいこうと思う。

 その前に、大阪芸術大学卒業制作をやり切る。まあまあまあ…選ばれるかどうかじゃなくて、納得のいくものを作れるといいな〜笑


どうでもいいけどこの写真好き

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