「生産的」に生きる——エーリッヒ・フロムの考えた人生の意味
エーリヒ・ゼーリヒマン・フロム(Erich Seligmann Fromm、1900 - 1980)は、ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者である。ユダヤ系。マルクス主義とジークムント・フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けた。新フロイト派、フロイト左派とされる。『自由からの逃走(Escape from Freedom)』(1941年)、『人間における自由(Man for Himself)』(1947年)、『愛するということ(The Art of Loving)』(1956年)、『生きるということ(To Have or To Be?)』(1976年)など多くの著書がある。
上記は1947年の著書『人間における自由』から、フロムが考える人生の意味、生きるとはどのようなことかをあらわした文章である。
フロムは「生産的」に生きることが重要だと述べる。フロムにとって「生産性(productivity)」というのは経済的生産性とは何の関係もない。フロムは「生産的方向づけ」というのがあらゆる領域における人間経験の関係性の形の一つであるとした。フロムにおける定義は以下のようなものである。「生産性とは、自分の力を使い、自分に内在する可能性を実現する人間の能力のことである」(『人間における自由』)。「自分の力を使う」ためには、なによりもまず自由でなければならない。誰かに依存した状態ではその力は発揮できない。
さらにこの「生産性」の定義には人間は理性に導かれる存在であるということが、その前提とされている。自分の力が何であり、それをどう使うか、何のために使うのかを知っている場合にだけ、力は使うことができるのだ。フロムのいうこの「生産性」は「創造性」と同義であり、またそれは「自発性」の意味でもある。
ただし、「生産性」はしばしば活動性(activity)と混同されがちだが、それを混同してはならないとフロムは指摘する。フロムのいう「生産性」は何かを「する」という意味ではないのである。外面的には行動的な人でも、その行動によって何かを変えたり、影響を与えたりすることができず、ただ単に外からの影響を受けるだけの場合には、むしろ受動的に分類されるべきであり、生産的とは言えない。
不安に駆られることも、同じく「非生産的」である。権威への服従と依存にもとづく活動も、それとはやや性格を異にするが、やはり「非生産的」に分類される。また、明白な権威ではなくとも、世論、文化の模範や常識、また科学など、匿名の権威に依存する人がいる。このような活動をフロムは「自動的活動」と名づける。人は他人からの期待をモチベーションにして、何かを行う場合がある。このような行為も、その行為の原因が自身の内にではなく外部にあるという意味で、やはり自発性を欠いている。
さらに、嫉妬や羨望などの非合理的な感情に駆り立てられる人がいる。そのような人の行動は、硬直したステレオタイプなものになる。これもまた、活動的な行為であっても自由でも合理的でもない。すなわち、生産的ではないとされる。
つまりは、人生の意味とは、フロムにとっては生産的であるということ、どんなものであれ人間を超える目的のためではなく、自分自身のために自分の力を使うことである。それこそが自分の人生を意味あるものにし、生産的であることで人は人間であることができる、とフロムはいう。人は人間の状況、自分の存在と自分の力を発揮する能力に内在する二分性(矛盾)を認識した時にだけ、自分の課題を解決できる。フロムのいう(実存的)二分性とは人間はつながりを求めながらも真には孤独であり、生きることを求めながらもいつか死を迎えるということである。その孤独な状況に耐えつつ、それでも自分自身であること、誰かに依存したり権威に服従することなく自分自身のために生きること、自分の特別な能力である理性、愛、生産的な仕事を完全に実現することで幸福になることを目指すべきだ、そのようにフロムはいうのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?