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「事実の相対性」という謎を生きる——柄谷行人による芥川『藪の中』論

ところで、私が『藪の中』を論じようとしたのは、この作品のなかに芥川の本質があると考えたからである。たとえば、芥川は「主知主義者」であり、「近代人の自意識」に苦しみ、「神を信じえなかった」などという説がまかり通っている。馬鹿げた神話というほかはない。
芥川がどうして「主知主義者」などであったろう。彼は知性の「限界」につきあたってもいないし、懐疑もしていない。他人に対する過敏な自意識は、真の内省とは異質である。衰弱した"神経"のもたらす迷いや判断喪失は、真の懐疑とはまったく別である。芥川には、「知性の限界」どころか、およそ知性上の問題は完全に欠落しているというべきである。
たとえば、『藪の中』の人物らは自己自身について無知であり、作者芥川のみが外側に立って真実を見とおしている。芥川は得意気である。しかし、それはどの人物をも心理的に透明なものとしてみる視点にもとづいているにすぎない。他者も私自身の行為もけっしてそのように透明ではありえない。

柄谷行人『意味という病』講談社, 1989. p.228-229.(太字強調は原著では傍点)

柄谷行人は、1970年代以後の、まったく新しいタイプの批評家である。それは彼個人の独自性によると同時に、70年代以後の文学状況の大きな変化による。本書『意味という病』の「作家案内」で曽根博義氏は「柄谷行人の批評そのものが、過去における「文学」の歴史的意味を明らかにすると同時に、現代において文学が持ち得る新しい意味を鋭く問うてきた」と述べている。

柄谷行人はマルクス主義哲学から出発しながら、文芸批評も得意とする哲学者としてその独自の思想を常に発展させてきた。むしろ哲学者としての側面が全面に立つ彼にとって、文芸批評も第一級のものであることを本書は証明している。本書の中心となるのは冒頭の「マクベス論——意味に憑かれた人間」であり、本書の題名「意味という病」もそこから取られている。その他にも、志賀直哉、鴎外、芥川などの文学について彼独自の視点からの評論を集めたものが本書である。

『藪の中』という小論は、彼の芥川論である。『藪の中』はある一つの事件についてその当事者三人が全く別の「事実」を語り、深層は藪の中という小説である(黒澤明によって『羅生門』というタイトルで映画化された)。しかし、柄谷は『藪の中』を読んで「われわれは少しも動揺しない」と言う。この作品を読んで「事実の相対性」という観念を受けとるかもしれないが、それ以上のものではない。この作品はわれわれに、いわば「謎」を提示するが、「この謎のなかを生きるように強いはしない」という。それはなぜだろうか。

それは、芥川にとって「他者が存在しない」からだと柄谷はいう。芥川にとって人間の心理は充分可知的なのである。だから『藪の中』には謎がない。『藪の中』の人物らは自己自身について無知であり、作者芥川のみが外側に立って真実を見とおしている。芥川は得意気である。しかし、それはどの人物をも心理的に透明なものとしてみる視点にもとづいているにすぎない、と柄谷はいう。『藪の中』の登場人物は自己自身について無知であり、作者芥川のみが外側に立って真実を見とおしている。しかし、それはどの人物をも心理的に透明なものとしてみる視点にもとづいているにすぎない、というのである。

これと対照的なのが、漱石の『明暗』である、と柄谷は論じる。『明暗』のなかの清子という女の謎である。この場合、われわれは主人公の津田とともにその謎を生きなければならない。それは、この謎がどんなに心理的に説明しても解けないものだからだ。相手は、「私の解釈をこえたところにある他者」であるという姿勢が、漱石の場合は貫かれている。つまり、作者でさえその「他者の謎」を見とおせる位置に立っていないのである。この場合、読者は登場人物とともにその謎を生きなければならない

そして、その謎はわれわれがいかに厳密に内省的であっても残存するという。たとえば大岡昇平の『俘虜記』や『野火』をみても、「私」はこの上なく明晰であるにもかかわらず、あるいはそのためにこそ「なぜ射たなかったのか」という不条理に苦しんでいる。私の行為が私自身にとって解きがたい謎、私自身にとっての他者となっているからである

「事実の相対性」とは、単にある事実が、ひとによって異なって見えるというようなことではありえない、と柄谷はいう。そこには絶体絶命のものがなければならない。他人の立場からも事実を考え、またありとあらゆる局面からも考えつくして、なおかつ不可解であるとき、はじめてそれを「事実の相対性」というべきである。そしてそれは単なる観念ではありえず、われわれはその「事実の相対性」という謎を生きなければならない、と柄谷はいうのである。




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