マレビトとは何か——上野誠氏『折口信夫:魂の古代学』を読む
折口信夫(おりくち しのぶ、1887 - 1953)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。折口の成し遂げた研究は、「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣(あざ)をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク、「靄煙渓」とも)と名乗ったこともある。
本書『折口信夫:魂の古代学』は、日本文学者(万葉学者)・民俗学者の上野誠氏が解説した一冊である。その冒頭は、上記に引用したような折口と上野の架空問答によって始まる。その核心となるテーマは、折口の学説の中心となる「マレビト」とは何かということである。
マレビトとは、「稀に来る人だから、客と考えれば⋯大過ない」と折口は答える。それは人か?と問う上野に対して、人であるとも神であるともいえると折口は言う。神は人であり、人は神にもなる、と。神と人とを対立するものとして捉える思考は近代的なものであり、日本人の霊魂観や他界観念の本質を見失うことになる。神と人を厳密に分けるのは一神教的世界観なのだ、と折口は言う。
折口にとって、神というものは祀り手の想像力によって姿も形も性格も変わるものである。日本人にとっての神の原初的なかたちは、遠くから時を定めてやって来る存在だった。つまり「稀に来る客」であり、だから「マレビト」なのである。マレビトは長い旅をして、人間のもとにやって来る。それを神の側から見れば、流離譚となる。日本の古い物語は、尊い神や英雄の流離の物語である(例えば、スサノオノミコト)。つまり、貴種の流離譚であり、それが日本の物語文学を育てた。これが折口のいう「貴種流離譚」である。
そのマレビトは何をしに遠くからやって来るのか。それは神からのメッセージを伝えるためだと折口は言う。神授の呪言、すなわち「呪詞」である。その呪詞が、日本文学の「発生」にもつながっていると折口は言う。「発生」とは時間的な概念である「誕生」と違い、各時代を通じて繰り返される、AではないものがAになってゆく事象である。つまり時間を無視した概念である、と折口は考える。
つまり、マレビトは日本人にとっての神や他界観念を説明する言葉であり、同時に文学をはじめとする諸芸術の発生をも統一的に説明するものである。人々はマレビトを饗応する、つまり、もてなす。神をもてなし、客をもてなす。日本の芸道を見てみると、和歌、茶道、華道などすべて客をもてなすためのものである。客を感動させる、客にくつろいでもらう。つまり、マレビトをもてなすところから、日本の芸術は生まれたと考える。
ではマレビトは神なのかといと、折口の言い方では、神でもあり人でもあるという。神と人を分ける考え方自体、そうした二項対立的な考え方自体が近代的思考であり、一神教的世界観に由来するものであるという。例えば「ホカイビト」という『万葉集』に登場する歌い手がいる。村々を経巡って祝福しながら物乞いをする芸能者である。いわば門づけ芸人である。そうしたさすらいの宗教者も、折口のいう「マレビト」なのである。折口の文学発生論や芸能伝承論は、そういうさすらいの宗教者、芸能者の役割を重視した日本文化論なのである。
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