存在と疲労
疲労について考えている。
他者論で有名なエマニュエル・レヴィナスがこのように述べている。
疲れるとは、存在することに疲れてしまうことである。そのことは、いっさいの解釈のてまえで、疲労の具体的な充実においてそうなのだ。疲労の単純さ、その単一性と暗さにおいて、疲労は存在するものによって存在することへともたらされる遅延のごときものである。この遅延が現在を構成する。存在することにおけるこの隔たりのゆえに、存在は一箇の存在するものと存在することそのものとの関係となる。疲労は、存在における一存在者の浮上なのである。(エマニュエル・レヴィナス『存在することから存在するものへ』)
レヴィナスはこう述べている。疲労とは、存在するということの意味なのであると。疲労ということは、私たち人間存在の何か余剰的なものなのではなく、むしろ本質なのであると。
より正確には、存在すること(存在そのもの)と存在するもの(存在者)との間の遅延(差異)のようなものが、疲労だと表現されているが、より簡単に言うことが許されるならば、疲労には私たちが存在することに積極的な意味を付与するものなのである。
レヴィナスが感じ取った疲労とは、生きていることのうちに存在する虚無の存在(つまり無が存在するということ)、存在するということ自体に疲れてしまうこと、そのような予感的な恐怖あるいは不安のようなものであった。
そして、それは彼の戦争体験(ユダヤ人としての)に大きく影響されている。彼のリトアニアの親戚はすべてホロコーストで抹殺されていた。戦争時に、とてつもなくおかしな出来事が隠されているうちに起こっていたのであるが、それに多くの人が気づいたのは戦後であった。そして、戦後、廃墟となった街、生きていた人間の不在、死者の存在、そういったものは忘却され、生者で日常が埋められていくということ。そのこと自体に、レヴィナスは〈疲労〉を感じ取っている。
私たちが世界内に存在するということ、また現在を起点にして、世界に働きかけることができるということ、これをハイデガーは現存在(人間存在)とは世界構築的であると表現した。
レヴィナスは、むしろ人間という存在者が世界に存在することに対して疲労を本質として感じ取っている。そして、むしろ〈眠り〉のうちに存在者が本来性を取り戻す契機を感じているのである。
じっさい眠りとはなんなのか。眠るとは、心理的かつ身体的な活動を中断することである。しかしながら、宙を漂う抽象的な存在には、この中断のための本質的な条件が欠けている。つまり場所が欠けているのである。睡眠への召喚は、横たわるという行為のうちに現成する。横たわるとはまさしく、存在することを場所に、位置に区画づけることである。(同)
私たちは疲労ということのうちに、もっと積極的な意味を見出していってもよいのではないか。なぜなら、疲労しない存在者は存在しないからである。疲労ということによって、私たちは自分の存在を確認し、私が〈私〉であることを取り戻すときに、私たちは眠りにつき、その定位を確認するのである。
疲労しない存在者は、主体を持たない匿名な何かである。例えば、人工知能といった存在者。あるいは、エンデの『モモ』に出てきた灰色の男たちのような存在。
私は疲労する。疲労するからこそ、私は〈私〉であるということを確認するのであり、眠りによって、自らを定位する。思えば、毎日の疲労。そして、人生という不可思議なこの物語における、ある期間の抑うつである。
参考文献:熊野純彦『レヴィナス入門』(ちくま新書)