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〈いま〉は存在するが客観的世界は存在しない——中島義道氏の時間論から考える「明るいニヒリズム」

私が死んでからも時間が経過するという図柄は無意味である。それは、私の代わりに他人の視点をひそかに導入して、その彼(女)がすでに死んでしまった私の「不在の長さ」を計測しているのであるから。
明るいニヒリズムへの入口は「時間」である。時間ほどその正体の捕まえられないものはない。だが、時間ほど誰でも正確に了解しているものもないと言えよう。それは「さしあたり」の了解である。ちょっと突けばすべてが崩れ去るような、しかもそれを知りながら突くことをためらっているような、そんな了解である。なぜなら、時間を真摯に吟味し出すと、世界が崩れるからである。日常生活のあらゆる襞にまで染み込み、あらゆる科学的世界像の基底をなしている客観的世界が崩れ去るからである。明るいニヒリズムは、それを意図する。
客観的世界がなければ、どんなにラクであろう。私は子供のころからそう考えていた。そして、その不可能さにいらだち、ため息をついてきた。しかし、哲学に埋没するにつれ、じわじわと客観的世界とは大掛かりなトリックであることがわかってきた。みな、客観的世界があるふりをしているだけなのだ。そうしなければ、生活が成り立たないからである。言いかえればそれだけのことなのだ。

中島義道『明るいニヒリズム』PHP文庫, PHP研究所, 2015. p.9-10.

中島義道(なかじま よしみち, 1946 - )氏は、日本の哲学者、作家。元電気通信大学教授。専攻はドイツ哲学、時間論、自我論。イマヌエル・カントが専門。東京大学教養学部並びに法学部を卒業。77年、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。83年、ウィーン大学基礎総合学部哲学科修了。哲学博士。

本書『明るいニヒリズム』は、中島氏が専門とする時間論からニヒリズムについて論じたものである。ニーチェはニヒリズムについて「永劫回帰」によって運命を愛さなければならないと説いたが、そのように肩肘張って悲惨な運命を愛さなくてもいいと中島氏は言う。本来の「運命愛」とは、むしろ「すべてが無意味であること」から一瞬も眼を離さないでいること、他の何かに解決を求めないこと、そこからの脱出を、大転回をいっさい求めないこと、こうした誠実で清潔な態度にほかならないのではないか。

中島氏にとって、明るいニヒリズムへの入口は「時間」である。わたしたちは客観的な時間というものを想定して日常生活を送っている。しかし、その客観的時間というものは幻想に過ぎない。時間というものを真摯に吟味すると、実はこの「客観的世界」というものはただちに崩れる。さらには、この客観的世界というものは大掛かりなトリックである、と中島氏は言う。これにまず気づくことが、明るいニヒリズムへの入口となる。

物理学は時間を扱っているようなふりをしているが、それは〈いま〉が完全に欠落している時間であって、すなわちそれは時間ではない。ただの「実数無限の点からなる線分」であり、それにそれぞれの〈いま〉を「そと」から投入して「時間」という名前を付けただけなのだ、と中島氏は言う。

哲学者マクタガートの「時間非存在論」では、「客観的世界」と〈いま〉とが両立しえないことを明快に示してみせた。時間は、過去・現在・未来という互いに排他的なあり方をしたA系列によって、またt1→t2→t3……という時間順序から成るB系列によって表現できるが、B系列はそれ自身として生成も消滅もしない世界であって、それだけでは時間を表してはいない。B系列はA系列に重ね合わせることによってのみ時間を表しうるのであるが、両系列を重ね合わせることはできない。両者を重ね合わせると、B系列の各々時間位置は過去でも未来でもありえる点となってしまい、このことは、過去と現在と未来とが互いに排他的であることと矛盾するからである。

こうして、B系列によって描写される客観的世界が「存在」するなら、A系列は「存在」しないことになり、〈いま〉は「存在」しないことになるのである。A系列が「存在」するなら、すなわち〈いま〉が「存在」するなら、客観的世界は「存在」しないことになるのである。マクタガートは前者の選択肢(〈いま〉は存在しない)を取ったが、同じ権利で後者の選択肢、つまり「客観的世界は存在しない」を取ることも可能だ、と中島氏は言う。彼の「明るいニヒリズム」はこの方向から始まっている。

中島氏にとっては、〈いま・ここ〉という場がすべてである。つまりマクタガートのA系列の〈いま〉のほうが実際に「存在」するのであり、B系列の客観的世界のほうが虚構であると考える。根源的に存在する「私」が〈いま・ここ〉に開けている特定の刺激状況に、過去の意味を付与するのではない。そうではなくて、〈いま・ここ〉に開けている特定の刺激状況に過去の意味を付与する主体を、そのつど「私」と呼ぶだけなのである、と中島氏は言う。

過去の意味は、〈いま〉が「どこからともなく」そのつど湧き出すように、「どこからともなく」〈いま・ここ〉に開かれている知覚風景に到来する。この意味を到来させるのは私であるが、私はそれを〈いま〉とは別の「過去という場所」からたぐり寄せているわけではない。そんな場所はないからである。この世界に過去が蓄積されているわけではない。ましてや、過去の出来事が私の脳の中に保存されているわけでもない。脳の中はすべて現在だからである。私は〈いま・ここ〉の知覚風景にそのつど「どこからともなく」過去の意味を到来させている、としか言いようがないのである、と中島氏は言う。

世界に根源的に意味付与する〈わたし〉は、世界の「うち」にはいかなる居場所もない。〈わたし〉が過去という意味を根源的に付与するのであるから、〈わたし〉が死んだあと「過去世界一般」というものが残るわけではない。このことを腹の底から自覚することは、実に晴れ晴れするものである、と中島氏は言う。一瞬一瞬、宇宙の総体は消え続けているのであり、持続してあるかのようなものはただの観念の集合であって、人間が言語によってこしらえ上げた架空物なのである、と考えるのが中島氏の「明るいニヒリズム」である。

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