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高群逸枝の「汎神論的共存」の原理——野本三吉『未完の放浪者:魂の通過儀礼』を読む

高群逸枝の「汎神的母性我」と、沖縄の巫女の世界観とは、どこかでつながり合っている。その直感は、ぼくを水俣に向かわせていた。
女性は出産を一つの契機として、個でありつつ同時に類的存在でありうる。
もし女性がそのことに気づくとすれば、そこから「生命共同体」の原型が浮かび上がってくるはずである。
人類は、この長い歴史の中で、女性の秘めている共同性を抹殺してきたのかもしれない。男性の文化が、人類の深層意識でもある女性の文化を奪ってきたのかもしれない。(中略)
十数年の間、水俣病は因果関係が明確でないという理由で放置されてきた。
その後も似たような公害被害は続発しているが、こうした事件に共通しているのは、企業の利益が優先され、被害者の苦しみを容認する「非共存」の論理である。
戦争を起こし、原爆を投下し、毒ガスを散布するのも、他者の犠牲の上に自らの繁栄を築いていこうとするエゴイズムの思想である。これらは男性原理とも言える。
こうした「非共存」の原理は、やがては自らの「いのち」をも抹殺しなければならないところまで行きついてしまう。

野本三吉『野本三吉ノンフィクション選集6 未完の放浪者——魂の通過儀礼』新宿書房, 2004. p.279-285.

野本三吉(1941 - )は、日本の教育学者、評論家、ノンフィクション作家。東京都本所区(現墨田区)出身。本名、加藤彰彦。横浜国立大学卒業後、5年間小学校教師を務めた後、教師を辞め、日本列島を4年余り放浪し共同体めぐりをする。1972年より、横浜市民生局職員となり、寿生活館の相談員、児童相談所の児童福祉司(ソーシャルワーカー)を務めた。1991年より、横浜市立大学文理学部、国際文化学部の教員を経て、2002年より、沖縄大学人文学部教授を務めた。

本書『未完の放浪者——魂の通過儀礼』では、野本の北海道・釧路児童相談所時代の経験、東京の日雇労働者の町「山谷」に住んでいたときのこと、沖縄・宮古島での経験など、過去の放浪の旅が振り返られながら、自立と連帯の思想、教育コミューンの構想、沖縄の「生命共同体」の思想などが展開される。そこに通底するのは、彼の「放浪者」としての個人史を振り返りながら、「いのち」とは何か、生命は「共存」することができるのかといった普遍的なテーマである。

本書の冒頭を飾るのは、高群逸枝(たかむれ いつえ、1894 - 1964)の『放浪者の詩』である。「放浪者は霊の深奥、およそわれわれが現在において至りうるべき八方世界を放浪する。しかもその生活は依然として死と瞬間の上に築かれる」。野本は、この文章に導かれて、放浪の旅を続けてきたという。つまり、高群逸枝の言葉は、野本にとって放浪者としての原点なのだ。高群逸枝は、詩人・民俗学者であり、日本の「女性史学」の創設者である。熊本県に生まれ、若い頃より詩人として活躍し、新聞などで短歌や詩を発表する。アナーキズムと出会って女性史研究を志し、平塚らいてうと共に女性運動を始める傍ら、女性史研究を進め、『母系制の研究』や『招婿婚の研究』などの業績を残し、女性史研究分野の発展に寄与した。

高群逸枝の「汎神的母性我の論理」は、「非共存」の男性原理に対抗するものとして、女性が持つ母の文化、共存的汎神的な思想を主張する。高群は『女性の歴史』に以下のように書いている。「汎神の女性文化は、協同社会をいとなみ、地上の平和を実現したが、一神的男性文化は、つねに一を追求して寧日なく、分裂と闘争に終始する。/一神教またはそうした思想の内部に、いかに多くの〈唯我唯真〉の標榜者たちが、分裂しあい闘いあっているか。/他の存在への尊敬と信頼がない世界では昨日の味方は今の敵でしかない。/けっきょくは〈力〉のみが解決することになる」。

野本はこの高群の「汎神的母性我」の思想に、沖縄の巫女的世界観を重ね合わせる。沖縄での生活を体験した野本が感じとったのは、徹底した「汎神論的共存」の実態を見たというものだった。この世に生きるものすべて、どれ一つとして無駄なものはなく、巨大な生態系に組み入れられ、それらが互いに無自覚に「共存」しているという事実である。そこには巫女的・母性的世界があり、母性的共存の論理がある。その行きつくところは、単なる人間だけの「共同生活」の枠を超えて、「生命共同体」というような構想であった。

野本は、水俣の公害被害の歴史、科学技術発展と原爆投下など、闘争の人類史を通して、男性原理である「非共存」の原理が働いていたのはないか、そして男性文化が女性の「汎神的母性我」あるいは「汎神論的共存」の文化を抹殺し、女性文化を奪ってきたのではないかと考えるに至る。しかし、生命共同体、あるいは生命は共存できるという女性原理は、人類の深層意識でもあるはずで、それを男性原理が単に抑圧しているに過ぎないとみる。それは、高群逸枝が女性史の研究を通じて、女性史を明らかにすることで証明しようとしていたことでもあった。


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