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なぜ「哲学する自由」を踏みにじってはいけないのか——スピノザ『神学・政治論』からの結論

これまで確認してきたように、スピノザのいう「哲学する自由」には、「考えたいことを考える自由」つまり単なる思想・信条の自由だけでなく、「考えたことを言う自由」つまり今日的な表現に直すなら言論・表現の自由も含まれます。そしてスピノザは、ただ闇雲にこうした自由を踏みにじるなと叫びたてるのではなく、踏みにじってはいけない理由を『神学・政治論』の中で丁寧に説明しています。  
それではなぜ、「哲学する自由」を踏みにじってはいけないのでしょうか。スピノザの用意した答えを、細かい議論を後回しにして最初に提示しておくなら、それは「無理だから」です。「哲学する自由」を踏みにじろうとする国家体制、言いかえればそこに暮らす人たちの思想・言論・表現をできるだけ厳格に取り締まろうとする国家体制は、単に一人一人の人間に無理なことを求めているだけでなく、最終的には一人一人の人間から成り立っている社会体制・国家体制そのものに無理をかけ、自滅に向かわせるというのです。(中略)
しかしスピノザは、こうした常套手段をとりません。彼が採用したのは、もう一ひねり加わった、ある意味では大胆なレトリックでした。先ほどの記述に続く「この[哲学する]自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう」というくだりがそれです。「道徳心」や「国の平和」を守るためという名目で(どこまで本気かはともかく)こうした自由を踏みにじるなら、かえって「道徳心」にも「国の平和」にも取り返しのつかない大打撃を与えることになる、とスピノザは主張します。つまりこの自由は、わたしたち一人一人の心にとっても、わたしたちが寄り集まって暮らす社会にとっても、「あっても無害」どころではなく、むしろ「ないと有害」なものだというのです。

吉田量彦『スピノザ 人間の自由の哲学』講談社現代新書, 講談社, 2022. Kindle 版. p.133-135.

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza、1632 - 1677)は、オランダの哲学者である。デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な「汎神論」と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。しかし「無神論」というのは彼の思想に対する誤解である。スピノザはすべてのものは神(人格神的なものではなく宇宙の摂理のようなものとしての神)の存在様態の一つであり、またすべてのものは神の内部にあるとした。

スピノザの主著は『エチカ』であるが、この本は彼の生前には出版されなかった。それは主に宗教政治的な理由による。スピノザの生前に出版された二冊のうちの一つ『神学・政治論』は、『エチカ』の前に書かれたものであるが、この本にすでに『エチカ』の最重要概念である「コナトゥス」に通じる考え方が導入されている。それは人間の「自然権」をどのように捉えるかというものであった。スピノザにとっての「自然権」とは、ホッブズのように自然状態(万人の万人に対する闘争)によって定義され、誰かに譲渡されるようなものではない。スピノザの考える自然権は、そもそも人間に備わっているものであり、それは「コナトゥス」、つまり「自己を保存しようとする力」のあらわれである。人間は、自然状態を避けるために社会契約を結び統治者に自然権を譲渡するわけではない。そもそも、人間は自然状態という観念を想定せずとも、自然権を有する状態にあり、むしろそこから出発するべきである(自然状態を出発点にするべきではない)、とスピノザは考える。

そして『神学・政治論』でスピノザがくり返し訴えたメッセージは、「哲学する自由」であった。哲学者の吉田量彦氏によれば「哲学する自由 liberas philosophandi」の大切さを説き、この「哲学する自由」という中核の思想にさまざまな角度から膨大な肉付けを施したものが『神学・政治論』であるという。吉田氏が(スピノザにならい)「哲学する自由」を定義づけると、まずは「知りたがる自由」であり、さらには「考えたいことを考える」だけでなく「考えたことを言う自由」だという。「考えたことを言う自由」とは、今日的な表現にするなら、言論・表現の自由も含まれる。なぜ「哲学する自由」を踏みにじってはいけないとスピノザは考えたのか。それは「無理だから」というのがスピノザの結論である。「哲学する自由」を踏みにじろうとする国家体制、言いかえれば、そこに暮らす人たちの思想・言論・表現をできるだけ厳格に取り締まろうとする国家体制は、単に一人ひとりの人間に無理なことを求めているだけではなく、最終的には一人ひとりの人間から成り立っている社会体制・国家体制そのものに無理をかけ、自滅に向かわせるとスピノザは考えた。

『神学・政治論』は、まず聖書はどんな本なのかという詳しい説明からはじまっている。つまり、聖書は預言(啓示)の書であり、律法(神が決めた法)の書であり、真理の書であるという常識を、それぞれに対して周到で批判的な分析を加えていくのである。つまり、スピノザは聖書が真理を語る書物ではないときっぱりと断言するそれでもなお、驚くことに、聖書を読む意味は大いにあるとスピノザは語る。なぜなら「愛」と「正義」を説く道徳的なメッセージの部分には役立つものがあり、人びとに平和な共同生活をすすめる「共生の書」であるからである、とスピノザはいう。つまり、人びとが平和に共存して暮らしていくための指針として聖書は大いに役に立つのだが、そこに「真理」が含まれているとして、絶対的な道徳規範を基礎づけなくてもよいとスピノザは考えたわけである。

そして神学論のあとに、政治論がつづく。聖書に真理が含まれないならば、人びとがお互いに平和に共生するためには、どのような政治論があるべきか。スピノザは、ホッブズの社会契約説と対比させながら、自説を展開する。ホッブズの自然権の定義は「何をしてでも生きようとする権利」であった。そして万人の万人に対する闘争(自然状態)を避けるために、自然権を統治者(国家)に譲るための社会契約を結ばねばならないとする。しかし、スピノザの自然権の定義は、ホッブズとは似ても似つかないものである。つまり、「自然の権利や決まりとは、わたしの理解では、個物それぞれに備わった自然の規則に他ならない。あらゆる個物は、こうした規則にしたがって特定の仕方で存在し活動するよう、自然と決められているのである」と。

スピノザは、自然権を「個物にそなわる自然の規則」と考えていた。それは「自己を保存しようとする力」あるいは「自らの存在に固執しようとする力」を意味する「コナトゥス」によって、存在論的に裏づけられるものである。スピノザは、この自然権を説明するために、魚の例を出している。「魚たちが水中を存分に泳ぎ回るのも、大きい魚が小さい魚を食べるのも、この至高の自然な権利によるのである」。魚の自然権に反する命令、つまり、魚に本来備わっているあり方を全否定するような命令は、無効なのだとスピノザは言いたいのである。吉田量彦氏は、「自然権をふまえない社会規範はいくら立てても無効であり、もしそうした規範を無理やり立てる人がいたら、その人は「無茶苦茶あほ」である、というのがスピノザの政治哲学の核心となる主張である」と述べている。

人間の自然権には、動物と比べると「可塑性」がある。つまり適応の幅が広いのである。しかし、いくら可塑性があるとしても、そこにどうしようもなく残る、いくら強制されてもそう簡単に手放したり譲ったりできない部分があり、それこそが「哲学する自由」であるというのが『神学・政治論』を貫くスピノザの主張である。スピノザは「哲学する自由」、つまり思想・言論・表現の自由が確保されなくなったとき、その社会は「暴力的な支配」に流れるとみていた。そして、そうした暴力に依存した支配形態は長続きしないと考えていた。なぜそうなるかというと、こうした自由が人間の「自然権」に欠かせない構成要素だからである。

このように、スピノザが『神学・政治論』後半部で提示した政治哲学は、それまでの西洋哲学史上、類をみないほどの徹底さをもって、私たち一人ひとりの「哲学する自由」、つまり思想・言論・表現の自由のかけがえのなさを強調している。しかも、それが大事な理由を人間の「自然権」という、存在論的な基盤にまでさかのぼって徹底的に根拠づけようとしたわけである。




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