鶴見俊輔がみた徳永進医師——『身ぶりとしての抵抗』を読む
昨日の記事につづき、鶴見俊輔をとりあげる。本書『身ぶりとしての抵抗』は、鶴見の社会行動・市民運動への参加をめぐって、そこでの考えを知りうる文章を集め、編集されたアンソロジーである。ハンセン病患者や支援活動をする人びと、60年安保やベトナム戦争反対運動、ベトナム戦争脱走兵援助の活動、隣国の朝鮮・韓国の詩人や抵抗運動家との交流を通して考えられたことなどが綴られている。「身ぶり」としての抵抗とは、社会運動における行動としての身ぶりのみならず、創作活動にあらわれる「身ぶり」も含まれると、編者の黒川創氏は述べる。
鶴見俊輔がベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に関わっていたことは有名だが、それ以外にも、ハンセン病支援活動やベトナム脱走兵援助運動、金芝河(キム・ジハ)などの抵抗活動家の支援などにも関わっていたことは、本書で初めて知った。なかでも、ハンセン病支援に関する論考「五十年・九十年・五千年」は、本書において最も長いものである。太平洋戦争の集結直後、一人のハンセン病の少年との出会いに始まり、回復者の交流施設をつくる動きなどに参与して考えたこと、経験したこと、それらを通して自分に開かれた知見などについて述べている。その論考の中で、鳥取の医師・徳永進氏が登場する。
鶴見が徳永氏を初めて見たとき、徳永はまだ京都大学医学部の2年生だった。1970年の大阪万博の際、大阪城公園に反戦運動の小さな団体がたくさん集まり、公園にテントをはって「反戦万博」という対抗集会を開いていた。それらから少し離れて、小さな掘立小屋のようなテントがあった。鶴見がそのテントに近寄ってみると、テントの表面にびっしりとハガキがはってあった。それらはハンセン病療養所の入居者に送った往復はがきの返信だった。その入口に「ぽつんと、若い男がすわっており、しごくおだやかな表情で、そこにただいた」。それが鶴見と徳永氏との初めての出会いだった。鶴見は「その力をいれないものごしが、眼にのこっている」と印象を書いている。
それから約30年がたち、徳永氏は医師となり、病院に勤務しながら多くの患者を看取り、そして自分の問題を深めていった。30年の間に、徳永氏が書いた書籍の文庫本が駅のプラットフォームの売店に並ぶようになり、鶴見はそれを見ると、「旧友再会の気分」がおとずれると述べている。10代の若者だった徳永氏が50歳になった姿を想像し、鶴見は感慨を深くする。そして、徳永が10代の頃に語っていた3つのことを成し遂げたことを喜んでいる。1つ目は、中学の頃からの女友達と結婚したこと。2つ目は、故郷の友達と夢みた共同性のある暮らしの砦となる家「こぶし家」を自宅から通える距離につくったこと。3つ目は、ハンセン病患者が回復にもかかわらず隔離されていることを自分の出身である鳥取県について調べて『隔離』という本に書いたことである。
徳永進医師は、私が暮らす鳥取においては伝説的な医師で、多くの著作がある作家でもあり、70歳を超える今でも臨床に従事する現役の医師であり、ホスピスケアのある「野の花診療所」を2001年に開設し、鳥取のホスピスケア・緩和ケアの第一人者でもある。詩を愛し、短歌を読み、ハーモニカを吹く。毎日のように「死」に接している臨床に身を起きながら、徳永医師にはユーモアや明るさが常にある。鶴見はそんな徳永氏を「まじめににあることからくりかえし自分を救いだし、自分が笑われることを通して、自分のめざすところをつたえた」と述べる。鶴見俊輔と徳永進という二人の人間の魂が、深いところで共鳴していたことを感じる文章である。
本書のあとがきにおいて編者の黒川創氏が、鶴見がさまざまな社会運動に関わることで何をやりたかったかを的確に伝える言葉を紹介している。
鶴見のまなざし、鶴見の文章が国や責任ある関係者への「糾弾」ではなく、いつも穏やかさややさしさに覆われているのは、そのような思いが背景にあったからだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?