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死者の不在そのものが存在に紛れ込む——レヴィナスの「イリヤ(ある)」の恐怖

世界を戦火に巻き込み、かつてない悲惨をもたらした二度目の大戦が終結する。ひとびとは戦地から帰還し、収容所から解放されて、かつての住居にもどってくる。収容所でも、あるものには家族が失踪したとの報がとどき、またあるものには家族からの返信そのものが途だえている。なにかがおこっていることはわかっていた(ポワリエとの対話)。  
生還してつぎつぎと耳にはいるのは、失踪が〈連行〉であったこと、返信の途絶が〈絶滅〉によるものであったことである。親しい者たちの決定的な不在がたしかめられる。その不在は、しばらくはおよそ耐えがたいものであったにちがいない。それにしても、生き残ったものは生きてゆかなければならない。死者が占めていた場所を、やがて生者が埋めてゆく。喪があければ、日常がはじまる。死者の不在そのものが存在のなかに紛れこむ。  
このことは、とはいえ、どこか底なしに恐ろしいことではないだろうか。死は空虚を穿つ。だが、「イリヤ」のざわめきが、やがてそれを満たしてしまう。「たったいま死んだものによって残される空所が、志願者の呟きによって充たされる」。つねに「存在の否定がのこした空虚を、あるが埋めてしまうのだ」(『存在するとはべつのしかたで』)。一九七四年に公刊された第二の主著でも、ことのけはいはなお消えのこっている。

熊野純彦『レヴィナス入門』ちくま新書. 筑摩書房. Kindle 版.

エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas、1906 - 1995)は、フランスの哲学者。第二次世界大戦後のヨーロッパを代表する哲学者であり、現代哲学における「他者論」の代表的人物だとされている。エトムント・フッサールやマルティン・ハイデッガーの現象学に関する研究を出発点とし、ユダヤ思想を背景にした独自の倫理学、更にはタルムードの研究などでも知られる。

レヴィナスは「ある(il y a)」ことの恐怖というものを語る。彼の「ある」の恐怖とは何を物語っているのだろうか。フランス語で「il y a(イリヤ)」とは「〜がある」という表現であるが、レヴィナスはこの「ある」が存在とも無とも異なる形で、気も狂わんばかりの恐怖の気分をともなうと表現している。ちくま新書『レヴィナス入門』において哲学者の熊野純彦氏は、この恐怖は「なにもかも変わってしまったのに、なぜ世界は在るのか。親しかっただれもかれもいなくなってしまってなお、世界はありうるのか。そうであるなら、世界の存在そのものが無意味ではないだろうか。存在は贈与どころか、むしろ剝奪、意味の徹底的な剝奪なのではないか。中心を喪失し、意味を剝落させた世界が、なおも存在する。存在しつづけている。そのとき、たんに「ある (il y a)」ことが、どこか底知れない恐怖となるのではないか」と語る。つまり、ホロコースト後の決定的な世界の意味の変容を基底にして、レヴィナスの「イリヤ」に関する消息があるというのである。以下、熊野氏の著書に沿って、レヴィナスの「ある」に関する考察を見ていこう。

ユダヤ人であったレヴィナスは第二次世界大戦中、収容所に入れられていた。自身は虐殺を免れたが、多くの近親者がホロコーストによって虐殺された。大戦が集結して、徐々に人びとが住居に戻って来るのだが、多くの人には返信が届かない。やがてその返信の不在が〈絶滅〉によるものであったことがわかってくる。親しい者たちの決定的な不在が確かめられる

それは、しばらくは耐えがたいものであったにちがいない。しかし生き残ったものは生きてゆかねばならない。死者が占めていた場所を、やがて生者が埋めてゆく。喪があければ、日常がはじまる。「死者の不在そのものが存在のなかに紛れ込む」。とはいえ、このことは、「底なしに恐ろしいことではないだろうか」と熊野氏は言うのである。死は空虚を穿つ。だが「イリヤ」のざわめきが、やがてそれを満たしてしまう。それは「沈黙のざわめき」なのであり、不在という空虚を埋める存在のざわめきである。レヴィナスの第二の主著『存在するとはべつのしかたで』においては、「存在の否定がのこした空虚を、ある(イリヤ)が埋めてしまうのだ」と語られている。

無数の死者が持ち込んだ世界の空洞も、やがては存在によって埋め尽くされる。恐ろしいのは「無」ではない。不在が底しれない恐怖を呼びおこすのではない。「ある(イリヤ)」こそが底なしの恐怖の対象となる。死すらも呑み込み、ある意味では死すらがそこで無意味となる。修復された街並みは無数の死を隠し、穿たれた不在を見えなくさせる。世界内では「あらゆる涙が乾いてゆく」(『存在することから存在するそのものへ』)。そら恐ろしいのは、そのことである、と熊野氏はいう。

熊野氏は存在の不在、つまり空虚がもたらす気分について、ベルクソンとレヴィナスの思想を対比させる。ベルクソンは「無」とは、一方では主観的な好みの問題であり、他方ではたんなる置き換えであるにすぎない(『創造的進化』)と述べる。戦火に焼かれ、災害に襲われた街を歩いてみる場合も、そこにあるはずの建物がない。ひとは一箇の無を、あるいは不在をみる。建物のかわりに瓦礫があり、かつては遠くへだてられていた青空がすぐちかくにある。とりあえずは、それだけのことである、と。ここで熊野氏は問う。「だが、ほんとうにそれだけのことなのであろうか」と。ユダヤ人ベルクソンは、1941年、失意のなか世を去った。ベルクソンの思考はしかし、決定的な意味で〈ホロコースト以前〉のものではないだろうか。「空虚そのもの、いっさいの存在の空虚、あるいは空虚の空虚」が「存在する密度」が、なおある(『存在することから存在するものへ』)。

「なにもないことがなおあるということ、なにかがあるのではなく、ただある(イリヤ)という事態を考えることができないだろうか」と熊野氏はいう。無ではなく、無があるけはいのような存在のしかたを想像すること、覆された世界の酷薄さをことばにすること。「ある」には容赦がない。たんにある、とは酷薄さである。そのような「〈ある〉がふと触れること、それが恐怖なのである」(『存在することから存在するものへ』)。レヴィナスの「ある(イリヤ)」ことに対する底なしの恐怖とは、〈絶滅(ホロコースト)〉によって存在の意味が決定的に変容してしまった世界における気分をあらわしているのではないか。ホロコースト以前と以後では、存在に関する哲学も、神を論じる弁神論も、倫理の意味も決定的に変わってしまい、私たちは以前と同じように感じ、語ることはできないという消息をあらわしているのではないか。そのようにレヴィナスは論じているように思えるのである。

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