ポスト・トゥルース時代の文学と哲学の役割——カントの定言命法と普遍主義的倫理
哲学者マルクス・ガブリエルと作家ダニエル・ケールマンの対談である。
マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )は、ドイツの哲学者。ボン大学教授。後期シェリング研究をはじめ、古代哲学における懐疑主義からヴィトゲンシュタイン、ハイデガーに至る西洋哲学全般について多くの著作を執筆。「新しい実在論」を提唱して世界的に注目されている。
ダニエル・ケールマン(Daniel Kehlmann, 1975 - )はドイツ生まれの作家。『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』(三修社)がドイツ国内で100万部を超えるベストセラーとなる。ミュンヘン生まれ、 ウィーン大学で哲学と文芸学を学び、カント哲学を研究。ほかの作品に、『僕とカミンスキー 盲目の老画家との奇妙な旅』『名声』(三修社)などがある。
二人の対談は「ポスト・トゥルース」時代の文学の意義から始まる。虚構と事実の境界線がぼやけているとも言える現象について、ケールマンはここには二つの問いが含まれるという。一つは、フィクション、物語、文学などの地位についての問い。もう一つはポスト・トゥルースの時代についての問いである。
ケールマンいわく、ポスト・トゥルースの問題はこれまでにも何度も起きてきたことだという。新しいメディアが登場するたびに、こうした問いが出てきたわけである。かつて印刷機が突如として、プロパガンダを満載したチラシを大量に複製できるようになったときも同様であった。オーストリアの風刺家でありマスメディアの思想家でもあったカール・クラウスは「新聞での大規模な戦争プロパガンダがなければ、第一次世界大戦はなかっただろう」と主張していた。今日のインターネットでも同様なことが起きている。ある意味「フェイク・ニュース」はこれまでにも存在していたのである。
ポスト・トゥルースの時代についての問いとしては、21世紀のデジタル化という文脈において、現在、必要とされている古典的な形式の知を、どのようにして社会改革のために貢献させることができるのか、という問題がある。哲学者ガブリエルは、ドイツ観念論のプロジェクトがまだ乗り越えられていないばかりか、21世紀に向けた解放の可能性すら含んでいると主張する。もともとヨーロッパには課題があるのであり、ヨーロッパという地域は「情報の危険性」というものに長らく直面してきた歴史がある。ヨーロッパで起きた第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る30年にもおよぶ闘いは、本質的に印刷機の発明の結果として起こった。一方、アメリカにはこのような歴史がない。
二人はアングロサクソン系の哲学者たちがドイツ観念論についてほとんど無知であることに驚く。ガブリエルがトマス・ネーゲル(アメリカの哲学者)とランチをしたとき、ドイツ観念論が「心の哲学」にどのような貢献をすることができるかが話題になった。ネーゲルが「存在の問題」「主体であるとはどういうことか」と呼ぶ「存在の問題」がテーマになったとき、ガブリエルが「ああ、トム、あなたは存在の問題を発見したのですね」と言い、ハイデガーが『存在と時間』で言っていることを説明した。するとネーゲルは『存在と時間』を読んだことがないと言ったのである。これはヨーロッパの哲学科では第一学期で学生が習うことだ。
これは一方、逆のことも言える。ケールマンが、ニーチェの専門家であるコンラート・ポール・リースマンと食事をしているとき、意識に関する哲学者であるデイヴィッド・チャーマーズとダニエル・デネットについて尋ねたところ、リースマンは「名前は聞いたことがある」と答えたという。
芸術は「架空の構造」を生み出す力を持っている。これについては倫理的・道徳的な議論が古くからある。芸術や文学は何らかの形で倫理的または道徳的でなければならないのかという問いである。ケールマンは、文学には直接的な倫理的要求はないと答える。文学は道徳原理を理解させ、読者をより善良な人々にするという直接的な強制力を持っていない。これについて、ケールマンは美学の問題に関して、ドイツ観念論の伝統、特に、カントの「無関心の満足」についての観点から影響を受けているという。カントの「無関心の満足」の場合には自然美について語っていて、芸術となると「付随的な美」について語っている。カントが言う「付随的な美」とは、常に個人的な興味と結びついていて、その興味は道徳的なものであるという事実を特徴としている。つまり、人間の状況に関しては、カントは、私たちが道徳的に完全に無関心になることは決してできないと言っている。私たちは人間として、この無関心を完全に受け入れることはできない。つまり、美と善はすでにつながっているのだが、それは背景に潜んでいて見つけるのは難しいということを意味している。
文学と道徳の問題においては、ケールマンは、芸術が感情移入(共感)のトレーニングだといことを示すのが一番簡単ではないかという。人々が小説を読み始めた結果、社会の暴力は減少した。小説とは、常に他人の目を通して世界を見て、別の世界とはどのようなものかを想像するためのトレーニングだからである。誰であれ、拷問者にもなり、殺人者にもなり、また恐ろしい人間にもなりうるのだが、世界を別の人間の視点から見ようとすることは、常に道徳的な行為なのだという。
ガブリエルは、倫理の原則はあらゆる複雑さにもかかわらず「議論」するべきものではないというカントの義務論の立場に立つ。功利主義による倫理というのはナンセンスなのだという。カントは「倫理は一つしかない」ということ、つまり「定言命法」を発見したのである。現代の相対主義を乗り越えるにはカントの倫理しかないのである。ニーチェは相対主義の問題をうまく処理できなかったし、功利主義者たちは自らの相対主義を隠している。定言命法は「人間性が常に自分自身と相手の両方に必要であるように行動することこそが目的であり手段である」と言う。あなたの人間性は別の立場からはどう見えるかを想像できるということであり、私の人間性はあなたのことを想像できるということである。それは、カントが「意志」と呼ぶ、さまざまな視点を管理する能力のことである。意志には善と悪の二種類の意志がある。善い意志とは、両方の視点が維持されるように意志を管理することであり、悪い意志とは、私の見方があなたに不利になるようにすることである。
そのような意味で相対主義に陥りがちな現代、カントに繰り返し立ち戻ることは役に立つ。そもそも功利主義では人種差別の問題さえ処理できない。人種差別に反対するような功利主義的な議論はない。功利主義では数字を扱う。しかし倫理とは、量とは何の関係もないものである。一人を拷問するか、10人を拷問するか、それは道徳的には、同等に非難されるべき問題である。ガブリエルは、文学、哲学、自然科学をはじめ、政治や経済学、つまり人間の自己理解のすべてのメディア、人間の自己理解のプロセスに関わるすべての関係者が協力して、普遍主義的な倫理的基盤をつくるべきだと主張する。多くの人にとって、どこへ行けばいいのか、何をすべきなのか、何をすべきでないのか、という難しい問題がたくさんある。その答えは「カントを読め」ということになる、ということで二人は同意する。