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「内なる時間」こそが人間そのものである——アレキシス・カレル『人間 この未知なるもの』を読む

生理的時間が物理的時間と全く異なることは、前にも述べたとおりである。もし時計の動きが速くなったり遅くなったりしたとしても、また地球がそれに対応して回転の周期を変えたとしても、人間の寿命はそのままで変わらないだろう。ただ、短くなったり、長くなったりするように見えるだけである。
物理的時間に起きる変化は、このようなかたちで明らかになるだろう。人間は物理的時間という流れに押し流されながら、内面におけるリズムによって動き、それが寿命という生理的存続時間を構成している。
人間は、川面に浮かんでいる一枚の小さな木の葉のような存在であるばかりではなく、川面に落ちた油が流れにそって運ばれながら、自分の動きで拡がっていくようなものでもある。外なる物理的時間は人間にとって異質のものであるが、内なる時間こそが人間そのものである。

アレキシス・カレル『改訂新版 人間 この未知なるもの』三笠書房, 2020. p.197.

アレキシス・カレル(Alexis Carrel, 1873 - 1944)は、フランスの外科医、解剖学者、生物学者。1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。1935年、カレルは『人間 この未知なるもの(Man, the Unknown)』を執筆しベストセラーとなった。本書はその翻訳書である。

本書においてカレルは人間という複雑な存在について、生理学的側面のみならず、精神的側面、さらには道徳的・宗教的側面などさまざまな側面から精緻に分析し、考察している。その中でも「内なる時間」という概念は特に面白い。

時間とは、事物の特別な性質であり、その性質は、その事物を構成しているものによって変わる。人間の「内なる時間」は外部的時間(物理的時間)とは性質が異なる独立したものである、とカレルは述べる。「内なる時間」とは、生まれてから死ぬまでの間に身体とその活動に起こる変化を表したものである、というのがカレルの定義である。それは、各人の個性を作っていて絶え間なく続く構造的、体液的、生理的、精神的状態のことを言うものであり、まさに、人間の持つ次元の一つであるという。

カレルによると「内なる時間」は、生理的時間と心理的時間に分けられる。生理的時間は、人間が生命を受けた時から死ぬまでに起こるすべての身体的変化から成っており、一つの定まった次元である。一方、心理的時間は、意識が外界からの刺激による影響を受けて、自己の動き、その一連を記録するときの時間である。ここでカレルはベルクソンの『創造的進化』の一節を引用する。

存続とは、一瞬が次の一瞬にとって代わることではない⋯⋯存続とは、過去が未来へと食い込んで引き続き前進し、進むにつれてふくれあがることである⋯⋯たゆみなく過去の上にさらに過去が積み重なっていく。実際に、過去は自動的に自らを保っている。そしておそらく、過去全体が常に人間についてまわっている⋯⋯疑いもなく、われわれは過去のほんの一部を用いて思考するのであるが、われわれが熱望したり、意図したり、行動したりするのは、生まれつきの魂の傾向まで含めた過去全体で行うのである。

アンリ・ベルクソン『創造的進化』

カレルは、人間はそれ自身が歴史であり、そして年齢というより、その歴史の長さが、内面生活の豊かさを表しているという。人間は物理的時間という流れに押し流されながら、内面におけるリズムによって動き、それが寿命という生理的な存続時間を構成している。外なる物理的時間は人間にとって異質のものであるが、「内なる時間」こそが人間そのものである、とカレルは言う。

またカレルは「すべての人間は固体になっていく液体」のようなものだという。人間は幼児のときにはいろいろな可能性を持っているが、大人になる過程で一つずつ失っていき、老いてくると、私たちは別の自分だったかもしれないもの、つまり途中で失ったままの潜在能力に取り囲まれている。つまり人間は「固体」に近づくにつれて、別の可能性を失うが、それとともに個性や過去の歴史を形作っていく。

人間は常に、環境と自分自身によってつくられる混合物である。ここでもカレルはベルクソンを引用し、生命の存続とは「絶対的に新しいものを発明し、形態を創造し、それを絶えず入念に仕上げていくこと」(『創造的進化』)を意味すると述べる。カレルが言いたかったこととは、生理的時間という流れに押し流されながらも、人間は「内なる時間」の本質である心理的時間に目を向け、自分の意志によって自己自身を作り上げながら生きていくことができるということだったのではないだろうか。

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