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日本文学の暗示性と「ぼかし」の趣味——ドナルド・キーン『日本文学を読む・日本の面影』を読む
誰も満月を見て三日月がどんなだったかとは思いませんが、三日月を見ると満月のことを考えます。そこに暗示的なものがあります。こうした暗示的なものについて『徒然草』は数回も語っています。それは欧米の考え方と全く異なるものです。
欧米の場合は、バラは満開がもっともいいのです。月の場合は満月がいい。クライマックスという考え方が西洋の美学には非常に強くあります。しかし兼好法師の場合は、むしろそれを避けます。クライマックスは全部ですから、見る人は何もそれにつけ加えることができません。完全なものを見ることしかできない。そこには何も自分の想像力に訴えかけてくるものはないのです。
それは日本の美意識と関係があります。たとえば、日本人には「ぼかし」の趣味がある。はっきりとしたものより、ちょっとあいまいなものを面白がります。
ドナルド・キーン(Donald Keene、1922 - 2019)は、アメリカ合衆国出身の日本文学・日本学者、文芸評論家。コロンビア大学名誉教授。日本文化研究の第一人者であり、日本文学の世界的権威とされる。文芸評論家としても多くの著作があるほか、日本文化の欧米への紹介でも数多くの業績がある。著書に『百代の過客』(1984年)、『日本人の美意識』(1990年)、『日本文学の歴史』(全18巻、1976~1997年)など。
本書『日本文学を読む・日本の面影』は、二葉亭四迷から大江健三郎まで近現代の作家49人の作品を読み込み、文学史的定説とは一線を画した多くの発見と発掘に満ちた名著『日本文学を読む』を復刊し、併せて、世界の文化・芸術に通暁した慧眼で『源氏物語』から三島由紀夫まで、日本文学・文化の遺産を熱く語るNHK放送文化賞受賞の名講義『日本の面影』を初収録している。
キーンは、『徒然草』に日本文学の暗示性を見て取り、それを余情の文学であるという。『徒然草』のテーマの一つとして暗示的なもの、あるいは余情がよく出てくる。兼好法師は、何かものに可能性があるとき、もっと成長していくときが面白いという。そして、終わりかけたときにも、それ以前に様子が暗示されることがある。満月ではなく、三日月を見て満月のことを思うというような風情である。これは満開のバラがもっとも美しいと感じる欧米の考え方とは全く異なるものである、とキーンはいう。
ここに日本の美意識が集約されている。日本人には「ぼかし」の趣味がある。はっきりとしたものより、ちょっとあいまいなものを面白がるという趣味である。西洋の言語ではあいまいさは避けるべきものとされる。しかし、『徒然草』の美意識は、象徴主義ともいえる。和歌や俳句もそうである。日本人はすべてを言い尽くすことには馴染まなかった。
もう一つ『徒然草』の美学に、不規則なものやいびつなものへの嗜好があるとキーンは指摘する。その例として、日本人が奇数を好むことをキーンは挙げる。日本人の好きな数字は、七・五・三である。歌舞伎の外題は必ず、三、五、七の文字になっている。一方、中国人は四をもっとも好む。四書、四君子、四行漢詩などがそうである。不規則性について言えば、日本の都市は左右非対称のものが多い。塔が一つしか残らず、建物は全部左のほうに偏っている。それと比べ、中国の寺院は左右対称に塔や建物をつくる。
キーンは日本文学の特質として五つの特徴を挙げている。
一つは、『徒然草』に代表されるような「余情の文学」というものである。先ほど述べたような曖昧さ、暗示性を評価する思想である。能でも同じように、明らかでない部分が多くある。西鶴の文体や芭蕉の俳句も同じである。近代文学でも、谷崎潤一郎の『春琴抄』をキーンは例に挙げている。春琴はあのとき何を考えていたのか。佐助をいたぶるつもりだったのか、それとも自然にそういう振る舞いに出たのか。それは作品の中ではほとんど書かれていないのである。
二つ目の特徴は、日本の文学が「主観の文学」であるということである。作者が自分を主体にして、印象とか感情を書く。『源氏物語』や『枕草子』は平安朝の宮廷の女官たちの主観の文学である。そこでは客観的な事実よりも、自分の主観や感情を表現することが中心となる。現代文学における私小説の根幹も、この伝統を受け継いでいるといえる。
三つ目は、それが「座の文学」ということである。数人あるいは大勢の人で、ひとつの作品をつくるという伝統がある。連歌がその最たる例といえる。連歌は多くの場合は、三人以上が一緒になってつくる。同じ連歌のなかで、各人がそれぞれ違った個性を発揮するのがよしとされた。俳句も同じことで、芭蕉が江戸に住んだ最大の理由を、人と一緒に俳句をつくることにあったのではないかとキーンは考える。
キーンが四つ目に挙げる特徴は、日本文学と美術との密接な関係である。テクストが表現する内容だけではなく、その文字が美しいかそうでないかが問題とされる。例えば、床の間に飾る掛け軸の文字は、読めないような文字が書かれていることが多い。しかし、重要なのはその文字が美しいかどうかである。また、日本では絵入り本が文学に大きな役目を果たした。古くから『源氏物語』を描いた絵巻物があり、『宇津保物語』にも昔は挿絵があったことが指摘されている。これは今のマンガのカルチャーにまで続く日本の伝統かもしれない。
最後にキーンは、日本文学の普遍性を挙げる。俳句の叙情などに代表される「日本人にしか分からない感覚」というものを日本人は好むように思われる。しかし、キーンはむしろ特殊性よりも普遍性のほうに注目すべきだという。例えば、『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母は、自分は惨めだなどと始終不平を言っている。しかし、彼女の不平には普遍性があるとキーンはいう。現代のアメリカやドイツの女性たちも同じようなことを言っているからだ。
日本文学は主観的に書かれたものが多い。しかし、それだからこそ普遍性があり、古びないのだとキーンは指摘する。なぜなら、時代や場所が変わっても、人間の感情はあまり変わらないものだからだ。日本文学はキーンにとって「翻訳しやすい」ものと感じられた。必ずしも世界の文学がそうではない。その国の文化に馴染まないと理解できない文学もある。しかし、日本の文学は主観的であるからこそ、そこに描かれる感情や人間の主観は普遍的であり、キーンにとっては理解しやすく、翻訳しやすいものだったのだという。