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死に対する恐怖の本質としての「無の永遠性」——高村友也氏『存在消滅:死の恐怖をめぐる哲学エッセイ』を読む

私は、私自身がいつか死ぬと信じている。私にとって死とは、「永遠の無」である。無は、今現に存在している状態から捉えるなら、存在消滅と言ってもいいし、意識の非存在と言ってもいい。
肉体が滅びれば何もかも終わりかどうかはよくわからない。けれども、「この私の意識」が残るようなかたちで何らかの死後生があるとは信じていない。
私が最初に死に関してこのような描像を抱いたのは、小学校に入って間もない頃である。突如、数百年でも数億年でもない、二度と戻ってこられない「永遠性」という観念が降ってきた。
私は至って健康であったし、私の周囲の人間もまた健在だった。私の生まれた時代は控えめに言っても豊かで、そして平和で、命の危険を身近に感じるようなことはなかった。何より私は幸福で、満たされており、自分自身の生や現世を忌み嫌う理由は何一つなかった。にもかかわらず、なんの契機も、なんの文脈もなく、私の思考の中に突如、「いつか自分の存在は消滅して、永遠に戻ってこない」という考えが降ってきた。⋯⋯
以来、今日に至るまで、私の死の描像は寸分も変わっていない。死とは、「永遠の無」である。

高村友也『存在消滅ー死の恐怖をめぐる哲学エッセイー』青土社, 2022. p.37-38.

高村友也(たかむら ともや, 1982 - )氏は、日本の哲学者。東京大学哲学科卒業、慶應義塾大学大学院哲学科博士課程単位取得退学。山梨の雑木林に小屋を建てて暮らしはじめる。現在は小屋と東京の二地域居住。宅地建物取引士。著書に、『自作の小屋で暮らそう——Bライフの愉しみ』(ちくま文庫)、『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか——生と死と哲学を巡って』(同文舘出版)などがある。

本書『存在消滅ー死の恐怖をめぐる哲学エッセイー』は、小屋暮らしの著作で注目を集めた高村氏が、仕事、旅、宗教、孤独、他人、文明といったテーマを手がかりに、どうして死はこんなにも怖いのかを独特の視点で語る著作である。自らにとっての「死」の恐怖と不安について、正直にその思いを綴っており、哲学的な思索というよりは、高村氏の自伝的な話を含めて、なぜ自分にとって、死がそれほどにも怖いのか、それをまったくの虚飾も嘘もなく、ただひたすら正直に綴っている。

「タナトフォビア(死恐怖症)」という言葉がある。文字通り、死が怖くて堪らない、不安で仕方がないという症状のことである。しかし、高村氏は「全く不思議な言葉である」と綴る。これが異常として認識されていること自身が、氏を落胆させる。「死が怖くて堪らないことが、なぜ異常なのだ」と。

高村氏にとって死とは、「永遠の無」である。無は、今現在に存在している状態から捉えるなら、「存在消滅」と言ってもいいし、「意識の非存在」と言ってもいい。氏を恐怖させるのは、この無の状態の「永遠性」である。「いつか自分の存在は消滅して、永遠に戻ってこない」という考えが、高村氏が小学校にあがって間もない頃に突然訪れたという。そして、それは40歳を過ぎた氏の現在でも、まったく変わっていない。

氏は、「永遠の無」が本当に怖い。元来、死について考えることは、生きることを断片化する。ずっと目的をもってやってきたはずの大小のことが、どこにも繋がっていないと感じられ、日常のあらゆる行為や思考、言葉が、バラバラになってしまうのだ。「生によって紡がれるはずの一つの人生という物語を断片化してしまうのが死である」と高村氏はいう。

哲学者の永井均氏は、彼の「わたし」に関する哲学的思索に対してなされた論評において、「永井がなぜこのようなことを考えるようになったか」という教育発達学的な捉えられ方をしたことに、「殺してやりたいくらいだ」と激怒しているという。そして、高村氏はこの気持ちが「とてもよくわかる」。高村氏が死についてこぼしたときによく言われたのが「暇なのでは」という言葉だった。「時間があるからそんなことを考えてしまう」というわけだ。しかし、では忙しくなってそれを考えなくなったからと言って、その問題そのものが消えてなくなるわけではない。それは単純に、問題があるのに、考えなくなっただけなのだ、と氏はいう。

やはり、無の「永遠性」が氏にとって問題である。それが永遠に続くとしたら、二度と戻ってこないとしたら、話は別なのである。死に関する議論や常識は、大体の場合において、永遠性というものが無視されている、と氏は考える。氏にとっては、この点が決定的に重要である。さまざまな哲学者たちが、死を見つめることで、死について向き合うことで生が充実すると説いている。しかし、そうした煌びやかな「死の価値付け」を目にするたびに、高村氏は絶望的な気持ちになるという。死を思うことで豊かになった人生も、やがて終わるからだ

死について考えるのは、何か意味があるからとか、答えがありうる問題だからということではなく、考えずにいられないというただそれだけの理由からである、と氏はいう。答えがあろうと無かろうと、そこに問題があることだけはわかる。そしてその問題は、圧倒的な恐怖に動機付けられている。何かを考える理由としては、それで充分である、と高村氏はいう。



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