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歴史叙述の「物語り論(ナラトロジー)」——野家啓一『物語の哲学』より

(3) 歴史叙述は記憶の「共同化」と「構造化」を実現する言語的制作(ポイエーシス)にほかならない。
よく知られているように、アリストテレスは『詩学』の中で歴史家と創作家の違いに触れ、「歴史家と創作家(詩人)との違いは、語るに韻律をもってうするか否かという点にあるのではない。(中略)両者の違いはむしろいま言われた点にある。すなわち、歴史家は実際に起こった出来事を語るのに対して、創作家(詩人)は起こるであろうような出来事を語る、という点にある」と述べている。先の新井白石の言と同様に、これもまた誰もが認めざるをえない区別であるように思われる。しかし、両者の区別は、アリストテレスが考えていたほど明確なものでもなければ、自明なものでもない。「歴史のミクロロジー」の立場からすれば、歴史家と創作家との違いは「種類(kind)」の差ではなく、いわば「程度(degree)」の差にすぎないのである。

野家啓一『物語の哲学』岩波現代文庫, 岩波書店, 2005. p.170-171.

野家啓一(のえ けいいち、1949 - )氏は、日本の哲学者。専攻は科学哲学。東北大学名誉教授。東北大学総長特命教授、元日本哲学会会長。本書『物語の哲学』は1996年に刊行された『物語の哲学——柳田國男と歴史の発見』を増補し新編集した文庫版である。

本書のテーマは「物語り論(ナラトロジー)」である。野家氏は、主にラッセルやウィトゲンシュタインら分析哲学者の手で押し進められた哲学における「言語論的転回」の議論を発展させ、歴史叙述についても、それは歴史の「事実」の探求から、言説や表象によって媒介された「意味」の探求へと大きく転回させるものとして描く。それは(当時、野家氏はあまり知らなかったことであったが)歴史学の分野における「言語論的転回」とも軌を一にするものであった。歴史学における「言語論的転回」は、20世紀後半のポスト構造主義の言語論、象徴人類学の文化理論、ニュー・ヒストリシズムの文学理論を三つの震源として生起したものであった。

冒頭の引用した箇所で、野家氏は「歴史叙述は記憶の「共同化」と「構造化」を実現する言語的制作(ポイエーシス)にほかならない」と述べる。例として母親が遺児の記憶を想起するような「思い出」が挙げられる。「思い出」と「歴史」は異なる。想起は「言語化」と「共同化」と「構造化」という三つの契機があってはじめて歴史となるからである。しかしながら、重要なのは客観的事実よりむしろ、遺児を語る母親の言語行為の中にこそある。想起の中核をなすのは思い出を語る言語行為なのであり、イメージはその補助手段にすぎない。想起の技術とは、過去を語る言語ゲームに習熟することにほかならず、「思い出」が「歴史」となるためには、単なるイメージにとどまらず、それが「言語化」されること、すなわち「物語行為」による媒介が必要になる、と野家氏はいう。

また歴史叙述には、言語化だけではなく「共同化」という契機が必要となる。言語化された感懐は、普遍性と抽象性を獲得し、一つの自立した「作品」となって「記憶の共同体」へと登録される。さらに思い出は「構造化」を経て一つの歴史叙述へと変わる。思い出の断片性や間歇性は、物語行為によって一定の筋と脈絡を与えられる。物語るという行為によって、「なぜそれは起きたのか」という素朴な疑問に答えつつ出来事の由来を説明することができるようになる。歴史を物語る行為は、単に過去の事実を「記述」し「描写」するものではない。歴史叙述は一定の視点からする過去の全体的な組織化であり、それはA・ダントンの言う「物語文(narrative sentence)」である。この物語文によって、時間的に離れた複数の出来事が結びつけられ、説明的叙述の関係に置かれる。この意味で、歴史家は創作家と隣合わせの位置に立つのであり、アリストテレスの言うほど歴史家と創作家に差異はないと野家氏は主張するのである。

しかしながら、野家氏の歴史叙述の物語り論は、大きな批判にもさらされた。それは1990年代の歴史修正主義論争の進展の中で、野家氏の主張は「国民の物語」を標榜する修正主義の流れに与するものではないかと誤解を受けたことにある、と本書の「あとがき」で野家氏は述べている。代表的な批判は上村忠男氏の『歴史的理性の批判のために』によるものと、高橋哲哉氏の『記憶のエチカ』および『歴史/修正主義』によるものである。後者の高橋氏の批判を取り上げると、「問題の中心は、「国民の物語」の正当性に対する批判的判断が、「物語論」自体からは出てこないことだ」と述べている。つまり歴史叙述の物語論からは、どのような歴史叙述が倫理的であるかを決定することはできない、という批判である。野家氏は、その批判を受け止めつつ、さらに物語り論それ自体からは、政治的・倫理的決定を正当化するいかなる基準も「出すべきではない」と主張する。物語り論が関与するのは「歴史的説明の正しさ」、あるいはその叙述構造やイデオロギー性、あるいは発話のポジショナリティなどの問題の分析なのであって、「政治的・倫理的正しさ」ではない、と野家氏は主張するのである。

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