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精神病患者の世界をその内側からながめること——R・D・レイン『引き裂かれた自己』を読む
患者はさまざまな悩みをもって精神科医のところへくる。その悩みは非常に特殊なもの(「私はどうしても飛行機からとび降りる気になれない」)から、非常に散漫なもの(「どうしてここに来たのかわかりません。間違っているのは私なんだろうと思います」)まで、さまざまである。しかし患者が最初に口にする悩みがいかに特殊な、あるいは散漫なものであろうと、彼はその実存、世界内存在を、丸ごと治療の場面にもちこんできたのである。⋯⋯他人の「世界」がどういうものかを鮮明にし、その世界における彼の存在のあり方を明快に実現することは、実存主義的現象学の課題である。⋯⋯かつて私はある患者を扱ったことがあるが、自己の存在の地平についての彼の観念は、自分の誕生と死との彼方にまで及ぶものであった。彼が言うには、彼は単に「想像上」ではなく「実際に」、本質的にはひとつの時間、ひとつの場所に限定されてはいないというのである。私は彼を精神病とは思わなかったし、彼が誤っていると証明することはできなかった。しかし、人間の存在に関するその人自身の概念や経験と、その人の存在に関するわれわれの概念や経験とが、非常に違ったものだということを知ることができるのは、実際上かなり重要なことである。これらの場合、われわれの世界における対象として、すなわち、われわれ自身の論議体系の内部で他人を見るよりも、むしろ他人の論議体系の中にわれわれ自身を位置づけることができねばならない。誰が正しくて誰が誤っているかを即断するまえに、この位置づけをやり直すことができねばならない。この能力は、精神病を扱う場合には明らかに絶対的な必要条件である。
ロナルド・ディヴィッド・レイン(Ronald David Laing、1927 - 1989)は、スコットランド出身のイギリスの精神科医、精神分析家。グラスゴー大学医学部卒業。軍医等を経て、ロンドンのタヴィストック・クリニックに勤務。ウィニコットに精神分析を受け、精神分析家としての活動も開始する。伝統的な精神医学を批判し、クーパーらとともに、反精神医学運動を提唱、1965年には、その理念に則ったキングスリー・ホールを開設し、独自の精神療法を実践した。
本書『引き裂かれた自己(原題:The Divided Self)』は1960年のレインの著書である。本書において若きレインが目指したものは、狂気あるいは狂気への過程を、了解可能なものにすることであった。彼の関心は特に統合失調症患者に向かっているが、彼らを意味のある世界を担った全人格的存在として、あくまでも統合失調症の人間を理解しようとするのである。彼の統合失調症観、さらに彼の人間観そのものの基底となっているのは実存主義および現象学である。したがって、彼の研究は「実存主義的-現象学的人間学」として位置づけられ、従来の精神病理学に対する批判、つまりクレペリンやフロイトの自然科学主義、客観主義に対する批判がレインの方法論的な出発点になっている。
従来の精神病理学に対するレインの批判は主に二つの点にある。
第一の批判は、その用語の抽象性、あるいは還元的性格に対する批判である。これらの用語は人間を他者あるいは世界から孤立したものとして扱い、他者あるいは世界との実存的な関係のうちに人間を見ようとせず、しかもこの孤立した存在の諸相を誤って実体化する。そこで、我と汝という根源的な関係の代わりに、孤立した人間を取り上げ、その諸相にさまざまな「学術的」用語を付加する。しかし人間をこのようにバラバラに分解する要素還元的な態度では、全体としての人間は捉えられない。レインは、このような理論が生まれる根底には、患者をひとりの人格としてではなく、一個の物として見る態度があることを指摘する。
第二の批判は、従来の精神病理学に見られる、いわゆる「人格侮辱の言葉」に関するものである。すなわち、精神病を適応の「失敗」とか、現実の「喪失」とか、分別の「欠如」などとして捉える姿勢に対する批判である。精神病に病んでいる人間は人格的に劣悪なのか。レインは、狂気のうちに、むしろ患者にとっての実存的真理そのものを見ようとする。精神病に病んでいるひとりの人間の世界のあり方を、そのまま全体として了解することが問題となる。そのとき、精神科医は世界から身を隠し、ただながめるだけの存在ではない。精神科医も否応なく世界の内にあり、精神科医の行動そのものが患者の行動を規定する。レインは「患者の行動というものは、ある程度精神医学者の行動の関数である」という。
以上のような基本的立場に立つレインは、統合失調症という精神のあり方に対して、その構造をどのように具体的に捉えていくのか。
彼はまず人間存在のあり方の構造としての「基本的実存的位置」を「存在論的安定」と「存在論的不安定」に分けるところから出発する。われわれは幼児からの発達の過程で、自己を現実的で生きたものとして感じるようになり、時間的にひとつの連続性をもち、空間的に一定の場所を占めるものとしての感覚をもつようになる。それと同時に他者をも現実的で生きたものとして経験するようになる。こうして「存在論的安定」の堅固な核を獲得する。
一方、存在論的に不安定な人間の不安として、レインは三つの形式を挙げる。それらは「呑み込み」「爆入」「石化」の不安である。
「呑み込みの不安」とは、他者に捕らえられ、呑み込まれ、自己を喪失するような不安のことである。存在論的に不安定な人にとっては、他者との関わりがアイデンティティの喪失という恐怖を与える。理解されること、愛されること、ただ見られることが、彼にとっては包みこまれ、呑み込まれるような不安を意味する。このとき、彼にとっての逃げ道は完全な「孤立」しかない。
「爆入」の不安とは、空虚な自己に他者が充満してくるような不安のことである。存在論的に不安定な人は自己を空虚なものとして感じている。彼はその空虚さが満たされることを願いながらも、同時にそれを恐れているのである。なぜなら、彼は空虚であることにおいてのみ、自己自身であることができると考えているからである。したがって、圧倒的な現実が彼の内に殺到してくることは、彼の自己があとかたもなく消されてしまうことを意味する。
「石化」の不安とは、生きた人間から死んだ「物」へ、あるいは自律性のないロボットへと変えられることへの不安である。彼はつねに他人によって石に変えられること、すなわち非人格化される危険を感じている。彼は二つの防衛機制を働かせる。第一は彼自身が石化をもって応えることである。第二は、自己自身ではなく相手を石化することである。
このように存在論的不安定な人は、そのような不安を抱える中で、自己自身を精神と肉体とに引き裂かれたものとして経験するようになる。そして、特に精神の方に自己を同一化させるようになっていく。自己は精神と肉体に引き裂かれ、肉体は真の自己の核ではなく、偽りの自己の核となり、真の内的な自己は、それを外からながめる立場に立つようになる。統合失調症の患者においては、この偽りの自己、あるいは「肉化されざる自己」が常態的となる。自己と他者の交わりが、偽りの自己を通してしか成り立ちえないものとなり、世界は非現実的なものとなる。偽りの自己の行為はすべて偽物で無意味なものと感じられるようになる。
以上が、レインが解明した存在論的不安定から始まり混沌たる非存在へと至る統合失調症患者がたどる過程の概要である。しかしながら、このようなレインの見解を、あまりに単純化して捉えてはならない、と訳者の天野衛氏は述べる。レインの示したこの系列を唯一の必然的な方向と考えては、彼の主張を見誤ることになるだろう。レインはそのような宿命論を展開しているのではない。彼はこの過程を、確かに可能な系列であり、了解可能なものとして提示しているのである。
彼が批判したのは、外から「客観的に」患者をながめ、分類し、患者を対象(物)として分析するような精神病理学の態度であった。しかし冒頭の引用で述べているように、レインが目指したのは患者をその人の「世界」からながめるように理解し、「その世界における彼の存在のあり方を明快に実現すること」、つまり実存主義的現象学の方法であった。つまり、「われわれ自身の論議体系の内部で他人を見るよりも、むしろ他人の論議体系の中にわれわれ自身を位置づけること」が、彼の実存主義的方法にとっての絶対的な必要条件である、とレインは述べるのである。