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丸山眞男が日本思想にみた「原型」と「原型を超える思想」

しかし、そうしたことは武士のエートスに関してだけではない。丸山は同じ65年度講義で、北畠親房が『神皇正統記』で説いた、「天地の初は今日を初とするの理あり」という時間論に高い評価を与えている。この時間論は丸山によれば、瞬間瞬間を享受しながら、時間の流れ(「なりゆき」「いきほひ」)に乗って動いていくという、「原型」のオポチュニスティックな時間観に根ざしているという。しかし、そうした「原型」の時間観を、「つねに今をすべての原初点とすることにより、恒久の過去は現在の瞬間に凝縮され、それがすさまじいまでの明日に向かっての行動と実践のエネルギーとなる」という「創造の論理」へと親房は高めているというのだ。それによって、「末法的ペシミズムは大きく転換される」ことになり、「彼の現実に対するはげしい主体的な働きかけを論理化」することができたのだと丸山はいう。つまり、ここでも「原型」から「原型を超えた思想」が生まれでる様子を丸山は描いているのである。
さらに、64年度講義では鎌倉新仏教が「原型を超えた思想」でありながら、講の形成や宗教一揆を通して社会の底辺の「原型」の世界そのものを変容させていった様子が描かれている。ここでは、「原型」が一方的に「原型を超えた思想」を変質させるばかりでなく、その逆のケースもありうることが述べられているのである。また66年度講義によれば、キリシタンが急速に流行したのも、そうした仏教の講や宗教一揆によって変革された社会を背景にしたからだとされている。

田中久文『丸山眞男を読みなおす』講談社選書メチエ, 2009. p.125-126.

丸山眞男(まるやま まさお、1914 - 1996)は、日本の政治学者、思想史家。専攻は日本政治思想史。専門学問は、「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ、経済史学者・大塚久雄の「大塚史学」と並び称された。丸山眞男に関する過去記事(日本思想の無構造性と思想的雑居性——丸山眞男『日本の思想』を読む)も参照のこと。

本書『丸山眞男を読みなおす』の著者、田中久文氏(哲学者・日本女子大学名誉教授)によると、丸山は戦後民主主義思想の旗手でありながら、さまざまに批判にさらされてきた。しかしその批判は多くの「誤解」に基づいているという。戦後の40年代には共産党やその周辺から「近代主義」にとどまった思想として批判されたし、60年代末の大学紛争のときには、新左翼や吉本隆明などの評論家から戦後民主主義の「欺瞞」の代表者としてターゲットにされた。また70年代のフランスのポストモダン思想の流行の際には、丸山の説く主体性というものは過去の遺物とみなされた。さらに90年代に起こった国民国家批判の潮流のなかでは、彼のナショナリズムが批判され、戦中の彼の思想も「総力戦」の思想と変わりないものとされた。

しかしそうした「誤解」に基づいた批判には、やむをえない事情もある。彼の日本政治思想史に関する戦後の研究の集大成は、60年代に東大で行われた日本政治思想史の講義にあるが、そのことが分かったのは90年代末になって『丸山眞男講義録』が刊行されてからであり、丸山の思想の本丸の研究は、まだ緒についたばかりなのである。

例えば、丸山の「主体性」の思想はいまだに大きく誤解されているが、彼が説いたのは、西洋近代をモデルにしたような硬直した主体性ではなく、「自分の内部で相対立する諸要素を緊張させあうこと」を通して、「自分を強く押し出しながら、その自分をも不断に自己否定し再形成していく主体」(笹倉秀夫)であったという。しかも、そうした主体は、絶えざる「対話」を通した、「他者感覚」によって貫かれたものでなければならないとされる。

また丸山に対する誤解として、丸山が日本文化を一元的に捉えた上で、それを西洋中心主義のまなざしによって批判したのではないか、というものがある。例えば、丸山は60年代になって、日本人の意識の深層に、主体の形成を拒むものが持続的に存在すると考えるようになり、それを「原型」と呼ぶようになった。この発想が日本の文化を決定論的に捉えるものとして、多くの批判を浴びた。しかし、丸山の説く「原型」は、決して決定論的なものではないと田中氏はいう。丸山は「原型」というものが、すべての日本人を宿命的にしばっているものとは考えていない。むしろ、「原型」を克服して主体性を獲得した思想の細い鉱脈を、日本思想史のなかから掘りだそうとした。この「原型を超える思想」の具体例として、十七条憲法、武士のエートス、鎌倉新仏教、キリシタン思想、一部の儒学思想などが挙げられる丸山は日本の精神風土に多様な思想の運動をみようとし、そこに根ざした主体性というものを考えようとしたのである。例えば、丸山は『歎異抄』と『葉隠』を高く評価している。彼はこれらの書のなかに、西洋近代とは異なった独自の主体性の捉え方を見出そうとしたというのだ。

日本思想史の「原型」とは固定的なものではない。丸山は「日本的なもの」を完結したイデオロギーとみるのではなく、「外来思想の『修正』のパターン」としてみるようになり、それを「原型」と表現した。「原型」とは、「おどろくべき執拗な持続力を持っていて、外から入って来る体系的な外来思想を変容させ、いわゆる『日本化』させる契機」のこと」だと丸山はいう。丸山はそこからさらに「原型を超える思想」をみていく。その具体例が「武士のエートス」である。武士のエートスは「底辺的・土着的な世界に根ざしながら、そこから新たに内発的に——すなわち『文化接触』を主たる要因にすることなく——形成されてきて、独自の『普遍者の自覚』への回路を作り出していく可能性をはらんだもの」と考えたのである。武士のエートスは、「原型」の世界から生い立ちながらも、名誉感に基づく強い主体性を形成したり、『貞永式目』にみられるような現実に根ざした「道理」の観念を作りだしたりしたことを、丸山は高く評価している。

丸山は、武士のエートスだけではなく、北畠親房の『神皇正統記』における時間論にも「原型を超える思想」をみている。親房は、瞬間瞬間を享受しながら時間の流れ(なりゆき)に乗って動いていくという「原型」の時間論を、常に今をすべての原初点と捉えつつ過去や未来を捉え直していく新たな時間論へと、すなわち「原型を超える思想」へ高めているというのだ。こうした「原型を超える思想」は、鎌倉新仏教やキリシタン思想、一部の儒学思想などにもみられるという。鎌倉新仏教においては、それが「原型を超える思想」でありながら、講の形成や宗教一揆を通して社会の底辺の「原型」の世界を変容させていった。キリシタンが急速に流行したのも、そうした仏教の講や宗教一揆によって変革された社会を背景にしたからだと丸山はいう。

丸山の語る日本思想の「原型」論は、外来思想を変容・修正するといっただけのものではなかったと思われる。「原型を超える思想」は、「原型」と対立したままあるだけではない。むしろ「原型を超える思想」が「原型」に根ざして生み出されながらも、「原型を超える思想」によって「原型」の世界が変容されていくという動的な関係性にあるものとして捉えられていた。


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