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啓蒙と神話の弁証法的関係——アドルノ=ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』を読む

近代科学の途上で、人間は意味というものを断念した。人間は概念を公式に、原因を法則と確率にとりかえる。原因という観念こそは、いわばそれだけが、古い理念のうちで依然科学的批判に地歩を譲らなかったために、科学的批判が自らの試金石とした最後の哲学的概念であり、創造原理の世俗化の最後の生き残りであった。実体と属性、能動と受動、存在と現存在などを当世風に定義することが、ベーコン以来哲学の一つの仕事だったのだが、科学はもう、そういったカテゴリーなしで用を足していた。

ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法:哲学的断想』徳永恂訳, 岩波文庫, 2007. p.26-27.

本書『啓蒙の弁証法』(Dialektik der Aufklärung: Philosophische Fragmente)はマックス・ホルクハイマー(Max Horkheimer、1895 - 1973)とテオドール・アドルノ(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903 - 1969)によって著された近代批判の研究である。ホルクハイマーとアドルノは、反ユダヤ主義のドイツを逃れてアメリカに亡命し、第2次世界大戦中に本書を執筆を開始し、1947年にアムステルダムで出版した。

ホルクハイマーとアドルノは、人間が啓蒙化されたにもかかわらず、ナチスのような新しい野蛮へなぜ向かうのかを批判理論によって考察しようとした。つまり、本書のテーマは「なぜに人間は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へと落ち込んでいくのか」というものである。その考察を開始するために、啓蒙の本質について規定するものである。

本書の表題とされる「啓蒙」(Aufklärung)とは、たんに無知を啓発するという教育的意味や、歴史上の一時期をさすのではなくて、人類史的過程を貫く文明化の過程という意味をもっている。さしあたり文明とは野蛮に対立するものと考えられるとすれば、先ほどのテーマ、つまり文明がその反対物である野蛮へと転化しているという現状認識にもとづいて、その由来を尋ねることが、「啓蒙の弁証法」のモチーフとなる。この「文明化=啓蒙」の過程は、通常、広義の「進歩」とか、「呪術からの解放」とか「神話から合理性へ」というい形で捉えられている。こういう「合理化」の過程が、弁証法的構造を持つということは、歴史的には、神話からの離脱としての啓蒙がふたたび神話へ転落するという事態を指示し、論理的には、それは啓蒙と神話との「非同一性と同一性」という弁証法的形式で展開される。

啓蒙は、人間の理性を使って、あらゆる現実を概念化することを意味する。そこでは、人間の思考も画一化されることになり、数学的な形式が社会のあらゆる局面で徹底される。その過程で「近代科学は人間に意味を断念させた」のである。「人間は概念を公式に、原因を法則と確率にとりかえる」。したがって、理性は、人間を非合理性から解放する役割とは裏腹に、暴力的な画一化をもたらすことになる。ホルクハイマーとアドルノは、このような事態を「啓蒙の弁証法」と呼んでいる。

啓蒙の精神は、自らの本質が支配にあると自覚することで、反省的な理性を可能にするものでもある。この反省によって、啓蒙における理性と感性の融和が、可能となりうるとアドルノ=ホルクハイマーは考えている。

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