身体性の回復としての「屋台」——ハイデガーの世界内存在と民藝
『日本のまちで屋台が踊る』という面白い本が2023年に出版された。編者の一人は、カモメ・ラボ代表で建築家の今村謙人さん。今村さんは屋台づくりワークショップを各地で開催。屋台を使ったまちづくり活動を実践している。今村さんは新卒で入った設計事務所をクビになり、仕事を転々とした。その後、夫婦で世界一周旅行をした際、メキシコで思いつきで焼き鳥を路上で売り始めた。そのときに「これは屋根がないけれど、れっきとした屋台だ」と感じたという。今村さんの「屋台」の精神はここから来ている。それは小さなチャレンジが可能であり、人とのつながりを生むようなモバイルな「場」なのだ。
本書には屋台をつかった実践をしている実践者と、屋台を少しメタ視点で語る専門家のインタビューが掲載されている。実践者には、今村さんをはじめ、鳥取で「汽水空港」という書店を経営するモリテツヤさん、大阪で自転車屋台をやる鈴木有美さん、そして私(まちで屋台をひく医師)の記事もありがたいことに掲載してくれている。
専門家インタビューの中には、文化人類学者の小川さやかさん、社会学者の南後由和さん、都市史が専門の石榑督和さん、政治学者の栗原康さん、哲学者で民藝に詳しい鞍田崇さんの記事などが並ぶ。専門家それぞれの視点で、現代の「屋台」の意義をそれぞれにユニークな観点から分析している。冒頭の引用は、哲学者の鞍田崇さんのインタビューからの引用である。
鞍田さんは、「コードとノイズ」という話から、民藝と屋台の話につなげていく。「コード」とは通念とか秩序、約束事の意味が含まれる。一方、「ノイズ」とは雑音や無秩序などのことで、秩序化されるものから逸脱するものである。例えば、哲学は「わからない」ということを大事にする姿勢、つまり「ノイズ」を大事にすることだと鞍田さんはいう。世の中の「わからない、できない、モヤモヤする」というノイズを無視しない。むしろノイズにはコードで固められた現状をブレイクスルーするための大事なきっかけが潜んでいる。その視点を与えてくれるのが哲学だという。
1920年代に民藝を提唱した柳宗悦たちも、この「ノイズ」の視点を持っていた。美藝・美術というコードの世界に対して、いわば「ノイズ」の美としての民藝を提唱した挑戦者だったからだ。柳宗悦は誰も評価しなかった名もなき人が作った日常の雑器(下手物)に美を見いだした。この民藝の精神は今でも続いている。ただ単に確立された美の世界を守るのではなく、ささやかな変革をやり続ける動き。それを鞍田さんは「小さな工芸的社会変革」と呼ぶ。
屋台にも民藝に通じるような「ノイズ」の視点、あるいは日常の生活や身体性に根付いたものがあると鞍田さんはいう。この本に出てくるような屋台の新しい動きは、時代に対する一つのカウンターカルチャーともいえる。そして、屋台は「街を身体化する力」もあるのではないかと鞍田さんはいう。そこで流れている小さな営みのバイブレーションが自分の肌に伝わってくるし、自分がやっていることも街の動きに反響しているように感じる。屋台が街にあると「大きな服をまとっているように街と身体が地続きな感覚が生まれる」という。
ハイデガーの「世界内存在」という概念も、そうした身体性を介した自己と社会のネットワークのことを指していた。この概念で、ハイデガーは単に人間が世界という容れ物の中にあるということを言っているのではなく、むしろ「被投性」、つまり人間は世界というある状況に投げ入れられており、その制約のもとで取捨選択ができない状態にある。そして人が使う道具や身体を介したふるまいはすべて、それと連関をなすネットワークや社会的影響のもとにある、ということを意味していた。鞍田さんは茶道の世界における「作法」や「道具の寸法」がすべて、ハイデガーの世界内存在の例だという。鞍田さんは「屋台」というものが、そうしたハイデガー的な世界内存在としてボトムアップで立ち現れる形態、社会性を帯びた身体性の結実したものではないか、と考える。
世の中が新自由主義的な経済動向やグローバリゼーションの中で、大きな秩序(コード)に取り込まれていく中で、人びとの小さな逸脱や抵抗(ノイズ)の集まりが、身体性を通して社会的形態となったもの、それが「屋台」かもしれない。「屋台」とは一種の「身体性の回復」という側面を持っているのではないか。それは、やはり約100年前の当時も、時代の潮流へのカウンターカルチャー/オルタナティヴとしての意義をもっていた民藝の精神ともつながるものなのだ。
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