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すべての人は自覚的に生きようとする限り哲学者である——淡野安太郎『哲学思想史』を読む

ただ、われわれにとって最も根本的な事実は、われわれがこの現実のただなかで生活している、ということである。それ故に、われわれに課せられる問題というのも、決して空中から飛来するものではなく、われわれが現に直面している現実によって課せられるのである。(⋯⋯)それは「考える」能力を賦与された人間の深い悩みであると共に、また大きな喜びでもある。この意味において、すべての人は——自覚的に生きようとする限り——一人残らず哲学者である、ということができる。哲学者である以上、移り行く現実の中にあって、変らざる永遠を憧れ求めずにはおれない。しかし「変らざる永遠」は、決して動く現実から離れてそれ自体で鎮座しているものではなく、瞬間現在となって生きてはたらくものこそ真の永遠であるとするならば、この現実に徹して現実を生き抜くことこそ永遠に参ずる唯一の途であり、この途を精進することなくして生きた哲学はあり得ない、といわねばならないのである。

淡野安太郎『哲学思想史:問題の展開を中心として』角川ソフィア文庫, 2022. p.19-20.

淡野安太郎(だんの やすたろう、1902 - 1967)は、日本の哲学者。京都帝国大学哲学科卒。台北帝国大学助教授、東京大学教授、学習院大学教授を歴任。専門はフランス哲学、社会思想史。

本書『哲学思想史』は勁草書房から1949年に刊行、2022年に角川ソフィア文庫より『哲学思想史 問題の展開を中心として』として復刊された。哲学史を、古代から20世紀までの哲学と思想を、その内在的論理がよくわかるように細心の配慮をしながら書き進められている。単に哲学者の思想を羅列するのではなく、通読できる思想と思索の道筋としてまとめられているのが特徴である。

序章において淡野氏は、哲学は他の学問によって置き替えることのできない独自の性格と価値をもつという。それは、通常の学問は、それが対象とするものの定義や内容がある程度見当がつくのに対して、哲学に関しては、そもそも「哲学とは何か」という問いが提出せられるのであり、この問いを考えることを避けて通れないからである。「哲学」というものが完成したものとして与えられていないならば、カントが言ったように、われわれは(通常の意味で)「哲学」を学ぶことができない。すなわち、哲学を学ぶということは、「哲学」という一つの可能なる学の「理念」に少しでも近づこうとする試みなのである。われわれは、通常の学問のように「哲学」を学ぶことはできないにしても、先哲の思索の跡を辿りながら、先哲と共に考えることができる。われわれは先哲と共に考えることによって、少なくとも「哲学的に考えること」を学ぶことはできるのである。

ベルクソンによれば、一般に「概念」というものは、決して対象の本質的なもの・固有のものを示すものではなく、ただ「いのちなき一般的な共通の側面」をわれわれに示すものにすぎない。したがって、「概念」をもって生きた実在を捉えようとしても、それは無駄である、と淡野氏はいう単なる「概念」をもって哲学を学ぼうとすることは、誤った道へとわれわれを導く。そうではなくて、当の対象と共感する「直観」の努力によって、実在そのものの中で自分自身を投げ入れなければならない、とベルクソンにならって淡野氏はいう。自分自身を実在そのものの中へ投げ入れること。それによって初めて、他のものによっては置き替えることができない、それ自身固有のものを把握する途がひらけるのであり、それこそが「哲学をする」ということである。

哲学とは「世界観および人生観に関する一般的な問題」を扱うものだと淡野氏はいう。したがって、それは普遍的なテーマを扱うのであり、それは「人が自らの生を生きる」ということの普遍性と通じたものである。われわれにとって最も根本的な事実は、われわれがこの現実のただなかで生きているということである。私たちは「考える」能力を持っている。考える限り、自分の生について、どのように生きるかについて考えざるをえない。その意味において、すべての人は自覚的に生きようとする限り哲学者である、と淡野氏はいう。そして、そのように生き、問い、そして考えることこそが、生きた哲学を学ぶということなのである。


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