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民藝の「偉大なる平凡」——鞍田崇氏『民藝のインティマシー』より

「公」に「共有」される世界という視点は、理想を見る視点です。つまり、民藝というコンセプトのもとに獲得された「別なるもの」における目的を指し示す視点といえます。対して、この目的を実現するアプローチ、手段を示しているのがもう一つの視点、「平凡」で「普通」の世界です。遠くかなたの理想に対する、身近な手元の現実ともいえるでしょうか。そしてこれこそが、民藝という「別なるもの」がどういうものであったかを明示するものにほかなりません。

平凡への肯定、否、肯定のみされる平凡。

先に柳のロジックにひそむパラドックスについて触れましたが、それがもっとも明瞭に現れているのがここです。「逆理」とは、通常はもっぱら積極的に評価されることがなく、ともすると否定されもする「平凡」が、ただただ肯定するほかないという事実からくるものです。平凡とはいえ、ただの平凡ではありません。「偉大な平凡」です。

鞍田崇『民藝のインティマシー:「いとおしさ」をデザインする』明治大学出版会, 2015. p.80-81.

哲学者の鞍田崇氏による民藝の解説書である。鞍田崇氏の別書籍についての過去記事も参照のこと(「生活の全体性の回復としての〈民藝〉——鞍田崇氏の「自己化」と「他力」の思想」)。

鞍田氏はこの書籍で、「インティマシー(intimacy)」というキーワードで、民藝運動の本質を現代的に捉え直そうとする。「インティマシー」とは「親密」「親交」といった意味で、学術用語としては、心理学や社会学での使用例がある。心理学においては、インティマシー(親密さ)を自我形成や対人行動において双方向的な他者関係を維持する自我の資質とするエリクソンやアーガイルの議論がある。社会学においては、大衆社会論の文脈で、匿名性の対概念としてインティマシー(親密さ)を取り上げたシュッツの議論が知られる。他方、2000年代には、伝統的な地縁・血縁ではなく、共通の価値観を有する者どうしが対等な関係性のもとで形成する「親密圏」の社会的・政治的意義を論じるゼリザー(V.A. Zelizer)らの議論がある。

しかし鞍田氏が民藝にみようとしている「インティマシー」とは、「いとおしさ」という感覚だ。民藝の基本コンセプトに柳宗悦が強調した「用の美」がある。用の美は、絵画や彫刻など、鑑賞を旨とする美術作品とは異なる美しさの世界、「使用」という文脈と結びついた機能美の世界を指すものである。しかし、鞍田氏は「美しさ」では汲み尽くせない別の側面が民藝にはあるのではないかと考える。それが「インティマシー」に注目する所以である。

その「インティマシー」に接続する文脈を探っていく過程で、鞍田氏は「偉大なる平凡」という言葉に注目する。柳は『民藝とは何か』という書物で、これに言及している。

あの平凡な世界、普通の世界、多数の世界、公の世界、誰も独占することのない共有のその世界、かかるものに美が宿るとは、幸福な報せではないでしょうか。否、かかる世界にのみ高い工藝の美が現れるとは、偉大な一つの福音ではないでしょうか。平凡への肯定、否、肯定のみされる平凡、私は民藝品に潜む美に、新しい一真理の顕現を感じるのです。私はこの偉大な平凡の中に、幾多の逆理が啓示されてくるのを順次に見守っています。

柳宗悦『民藝とは何か』講談社, p.59.

平凡とはいえ、ただの平凡ではない。「偉大なる平凡」である。遠くかなたの理想に対する、身近な手元の現実ともいえるだろうか。凡庸、平凡、普通。ここに柳は民藝の「別なるもの」、オルタナティヴとしての価値を見いだしていた。実際のところ、世間がいちばん求めていないのが「ふつう」であり、平凡ではないか。それをあえて選ぶということは、実は最も深く時代の価値観を相対化することを意味するのかもしれない、と鞍田氏はいう。

柳が民藝のコンセプトのもとですくいあげようとした現実から出てきたものが「平凡」であった。夢なんか見ようがない、悲しみにみちた「平凡」。その現実をうやむやにせず、そこに深く共感する中で培われたまなざしである。そうしたまなざしが重なりあうときに生まれる感情が「いとおしさ」ではないか、と鞍田氏は述べている。


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