民藝の「偉大なる平凡」——鞍田崇氏『民藝のインティマシー』より
哲学者の鞍田崇氏による民藝の解説書である。鞍田崇氏の別書籍についての過去記事も参照のこと(「生活の全体性の回復としての〈民藝〉——鞍田崇氏の「自己化」と「他力」の思想」)。
鞍田氏はこの書籍で、「インティマシー(intimacy)」というキーワードで、民藝運動の本質を現代的に捉え直そうとする。「インティマシー」とは「親密」「親交」といった意味で、学術用語としては、心理学や社会学での使用例がある。心理学においては、インティマシー(親密さ)を自我形成や対人行動において双方向的な他者関係を維持する自我の資質とするエリクソンやアーガイルの議論がある。社会学においては、大衆社会論の文脈で、匿名性の対概念としてインティマシー(親密さ)を取り上げたシュッツの議論が知られる。他方、2000年代には、伝統的な地縁・血縁ではなく、共通の価値観を有する者どうしが対等な関係性のもとで形成する「親密圏」の社会的・政治的意義を論じるゼリザー(V.A. Zelizer)らの議論がある。
しかし鞍田氏が民藝にみようとしている「インティマシー」とは、「いとおしさ」という感覚だ。民藝の基本コンセプトに柳宗悦が強調した「用の美」がある。用の美は、絵画や彫刻など、鑑賞を旨とする美術作品とは異なる美しさの世界、「使用」という文脈と結びついた機能美の世界を指すものである。しかし、鞍田氏は「美しさ」では汲み尽くせない別の側面が民藝にはあるのではないかと考える。それが「インティマシー」に注目する所以である。
その「インティマシー」に接続する文脈を探っていく過程で、鞍田氏は「偉大なる平凡」という言葉に注目する。柳は『民藝とは何か』という書物で、これに言及している。
平凡とはいえ、ただの平凡ではない。「偉大なる平凡」である。遠くかなたの理想に対する、身近な手元の現実ともいえるだろうか。凡庸、平凡、普通。ここに柳は民藝の「別なるもの」、オルタナティヴとしての価値を見いだしていた。実際のところ、世間がいちばん求めていないのが「ふつう」であり、平凡ではないか。それをあえて選ぶということは、実は最も深く時代の価値観を相対化することを意味するのかもしれない、と鞍田氏はいう。
柳が民藝のコンセプトのもとですくいあげようとした現実から出てきたものが「平凡」であった。夢なんか見ようがない、悲しみにみちた「平凡」。その現実をうやむやにせず、そこに深く共感する中で培われたまなざしである。そうしたまなざしが重なりあうときに生まれる感情が「いとおしさ」ではないか、と鞍田氏は述べている。