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キリスト者は何人にも従属しない自由を持ち、かつ何人にも従属する——ルター『キリスト者の自由』を読む

第一 「キリスト教的な人間」とは何であるか、またキリスト者にキリストが確保してあたえたもうた自由とはどんな性質のものか、これについては聖パウロが充分に論述していることでもあるが、われわれもこれを根本的に認識できるように、私はまず次の命題をかかげたいと思う。
 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
 キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。
これら二つの命題は、聖パウロがコリント人にあたえた第一の手紙第9章に「私はすべてのことに自由であるが、自から進んで何人の僕ともなった」と語り(9章19)、またローマ人への手紙第13章に「あなたがたが互いに愛し合うことのほかには、何人も債務を負うてはならない」と教えたところによって(13章8)、明かである。しかし愛は、それが愛するところのものに仕えまたは服従するものである。それはキリストについても同様で、ガラテヤ人への手紙第4章に「神はその子を女からうまれさせ、律法に服従させて送りつかわしたもうた」とある通りである(4章4)。

マルティン・ルター『新訳 キリスト者の自由・聖書への序言』岩波文庫, 岩波書店, 1955. p.13.

マルティン・ルター(Martin Luther、1483 - 1546)は、ドイツの神学者、教授、聖職者、作曲家。聖アウグスチノ修道会に属する。1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である。

冒頭に引用した『キリスト者の自由(ドイツ語:Von der Freiheit eines Christenmenschen、ラテン語: De libertate christiana)』は、1520年にヴィッテンベルクで発表されたルターの著書である。ドイツ宗教改革者としてのルターの最も優れた内容の小品であると評され、通例、『教会のバビロニア捕囚についての序曲』および『ドイツのキリスト者貴族に与える書』と並べて、宗教改革三大文書(または三大改革論)と呼ばれる。

キリスト教的人間、つまりキリスト者は、どのような人間か。また、キリスト教的人間にキリストがあたえた「自由」とはどんな性質のものなのか。これが本書のテーマである。これを考えるにあたり、ルターはまず2つの命題を提示する。

①キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
②キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。

この2つの命題は、言葉の上では相矛盾するように思える。キリスト者は誰にも従属しない自由を持つが、同時に誰にも従属し奉仕する、というのであるから。しかしながら、ルターの解釈におけるキリスト教的な意味では、この2つは矛盾せずに成立するまさにそのようなあり方が「キリスト者」であるという。これはどういう意味なのであろうか。

ルターは「信仰」と「行い」のどちらが義(正しいこと)とされるにふさわしいかを論ずる。ルターは以下のように断言する。「キリスト者は信仰だけで充分であり、義とされるのにいかなる行いをも要しない」と。なぜなら「どんな善行も、信仰のように神的な言に頼っていることはないし、またたましいのうちにあることもできないので、ただ神の言と信仰とのみがたましいのうちに支配するからである」とルターは述べている。

信仰のみが必要なのであって、善行は必要でない。むしろ義のためになされる行い(ただしくなろうとする意図をもってなされる行い)は、誤った偽りの意欲である。善行それ自体は悪いものではないが、重要なのはそれを行うときの意図あるいは動機である。善行の動機は「神の前に義たらんとしまた義なるところの善であってはならない」。そうではなくて、善行は「ただ神の聖意に適うために報いなしに、自由な愛から、これをなすべき」である。

なぜただしくあろうとする意図をもって行う善行は、偽りの善行なのであろうか。それは「報い」を期待しているからである。この場合、信仰(神の言をたましいのうちに迎え入れること)なしに、単に現世的な報いを求めて善行を行うということが義になってしまう。これは偽りの義であることは簡単に分かるであろう。だからこそルターは、キリスト者が義であることにおいては信仰のみで充分なのであり、行いは余計なものであると考えた。そのとき、ただ神の言にそって信仰をもち、その信仰と自由な愛をもって行いをなすということだけが必要である。その意味で、キリスト者はただ神の言を信仰し、その信仰を行う上では人々に対しての報いを求めないという自由を持っており、その自由な愛を人々に対して与え、行う上では僕となる

また、キリスト者は律法に縛られていないという意味でも「自由」であるとルターは言う。聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれるが、これは神の戒めすなわち「律法」と、神の呼びかけすなわち「約束」に対応する。律法はわれわれにいろんな善行を教え、かつ規定するものである。ルターは旧約聖書は主に律法の書であることを述べ、律法は私たちに何ができるか、何をしてはいけないのかを教えるものの、それを「実行する力」は与えないという。しかしながら、新約聖書は神からの約束または告知であるという。それは「キリストにおいて私はあなたにすべての恩恵と義と平和と自由を約束しよう」というものである。律法が戒めであるとするなら、約束は信仰につながる神からの約束は、私たちにキリストのような自由な愛を与えようという呼びかけなのであり、その「信仰」によってこそ私たちがそれを行う力が与えられるのである。

キリスト者は律法から自由であり、善行によってではなく、ただ信仰のみによって義となるという意味で自由である。また、キリスト者はこの自由な愛を他の人々に対して与え、行うときにはすべての人々の僕となり、彼らに従属する。なぜなら、キリスト者はただ信仰と自由な愛をもって他の人々に仕え、また役立つように行いをするのであるが、その際にはただ彼らにとって必要なものだけを念頭においてその行いをするからである。その行いは報いを求めるわけではなく、純粋に信仰にもとづいて、彼らの役に立つように奉仕するのである。その意味で、キリスト者は自由な信仰にもとづき、見返りを求めず、ただ他者に奉仕するキリスト者は何人にも従属せず自由でありながら、他者に対して従属し、奉仕するのである


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