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感嘆の行為としての他者の顔との邂逅——アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』を読む

私たちが他者の価値を見つけだすのは、他者の顔の上である。私たちが他者の官能が偶像化するもの、あるいはフェティッシュ化するものを目にするのは、顔の表情のもつ意味においてではない。それを目にするのは、世界の圧力によってではなく、彼らの内に存在する喜びの力、あるいは怨恨の力によって形づくられる像の上、表情が具体化する像の上なのである。
文明の共通コードによってコード化された人物が現われ、私たちと対面するとき、彼または彼女の顔は、「私はここにいます」と語っている。彼または彼女は、たんに、社会的分類の一例が示される一特殊例として、顔を向けるのではない。顔を向けているのは、この顔という外観に人が与える意味におさまりきれないもの、形式とそのコード化された意義を超過した過剰そのものなのである。顔を向かいあわせるということは、他者から他者へと伝達されるメッセージの交換を中断させる、感嘆の行為なのである。

アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』洛北出版, 2006. p.94.

アルフォンソ・リンギス(Alphonso Lingis, 1933-)はアメリカの哲学者。リトアニア系移民の農民の子どもとしてアメリカで生まれる。ベルギーのルーヴァン大学で哲学の博士号を取得。ピッツバークのドゥケーン大学で教鞭をとった後、現在はペンシルヴァニア州立大学の哲学教授。世界のさまざまな土地で暮らしながら、鮮烈な情景描写と哲学的思索とが絡みあった著作を発表しつづけている。メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』、レヴィナス『全体性と無限』、クロソフスキー『わが隣人サド』の英訳者でもある。本書以外の著作に、『汝の敵を愛せ』(洛北出版)、『異邦の身体』(河出書房新社)、『信頼』(青土社)、『変形する身体』(水声社)などがある。

リンギスはヨーロッパ哲学思想とアメリカ哲学界との橋渡し役として、またメルロ=ポンティとレヴィナスのすぐれた翻訳者として、評価はかなり以前から定まっている。リンギスは合理主義的な分析と構造ではもれ落ちてしまうものを表現しようとする。こうしたリンギスの思想の核を提示しているのが本書『何も共有していない者たちの共同体』である。ここにはリンギス思想の主要テーマである他者性、死、顔、エロスなど実にさまざまな要素が含まれており、神学、倫理学、文学、政治学、人類学、社会学の領域、あるいはこうした学術の複合領域に関心のある読者を大いに刺激する。

本書の七篇のエッセイで、リンギスが繰り返すのは、二つの点である。一つは他者性の認知の必要性である。もう一つはカエルに代表される小動物から植物、さらには非生物までも含む、あらゆる物にたいして開かれた肉体の表面、特に顔のもつ感受性への気づきである。リンギスは存在する物の一つひとつから湧き起こる、生の雑音(ノイズ)のなかに身を置き、その個別性に感嘆する。

合理的理性は他者のうちに同等で代替可能な存在しか発見しない。人間が個々人の他者性を確認するのは、人間の経験が不連続となる時間、すなわち、哀しみ、笑い、エロスの瞬間である。そうした異邦の時間にこそ、人は自らの他者性に気づき、他者との対面が可能となる。

「文明の共通コードによってコード化された人物が現われ、私たちと対面するとき、彼または彼女の顔は、「私はここにいます」と語っている」とリンギスはいう。他者の顔と私たちが向き合うとき、それは「文明の共通コード」によるコード化された人物を読み取る行為、つまり言葉によるメッセージを受け取るという行為がおこなわれているのではない。むしろ、そこにおさまりきれないもの、「形式とそのコード化された意義を超過した過剰そのもの」を受け取っている。他者の顔と向かい合うという行為は、感嘆の行為なのであり、それはむしろ共通コードによるメッセージの伝達を中断させる行為なのである。


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