オッペンハイマーの苦悩と彼が感じていた「責任」——バード/シャーウィン『オッペンハイマー』より
J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer、1904 - 1967)は、アメリカ合衆国の理論物理学者。理論物理学の広範囲な領域にわたって大きな業績を上げた。特に第二次世界大戦中のロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られる。戦後はアメリカの水爆開発に反対したことなどから公職追放された。
本書『オッペンハイマー :「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』(American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer)は、2005年出版の伝記本である。オッペンハイマーの伝記本であり、カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンが25年をかけて執筆した。2006年のピューリッツァー賞伝記部門を受賞。本書はクリストファー・ノーラン監督の2023年の伝記映画『オッペンハイマー』の原作でもある。
オッペンハイマーは晩年、彼が携わった原爆開発とその投下に対してどのように感じていたのか。1965年、オッペンハイマーは喉頭がんの診断を受けた。翌年になり彼は目に見えて衰弱し、自分の死期が近いことを自覚する。その時期、オッペンハイマーは彼の教え子の一人、デヴィッド・ボームへの手紙の返事の中でこう書いている。
「ロスアラモスでわたしがやったこと、できたことに対して遺憾の意を表すること、これをわたしはやらなかった。実際、あれの白黒をはっきりさせて後悔することをしなかったという感覚を、さまざまな場所で、何度も繰り返して再確認してきた」
オッペンハイマーは彼が開発した原子爆弾が多くの人の命を奪ったということ、そして原爆開発がその後の世界の様相を一変させてしまったことに、明らかに道義的責任を感じていた。しかし、彼が何よりも罪悪感を感じていたのは、それについての遺憾の意を「表明しなかった」ということだった。1966年の暮れに彼は、研究所のオフィスで《ルック》誌のトーマス・モーガンのインタビューに答えている。冒頭の引用はそのインタビューからである。
そのインタビューにおいて、オッペンハイマーは「責任」という言葉を強調した。モーガンが、その「責任」という言葉にほとんど宗教的な意味を込めているのではないかと指摘したとき、オッペンハイマーはそれに同意する。彼は原爆プロジェクトに従事していたときに非常に強く「倫理的な問題」を感じていた。そしてそれについてのはっきりとした意見を述べるようになったのは、それからしばらく時間が経ってからであった。晩年のオッペンハイマーは、自らが開発した原子爆弾に関して明確な「責任」を感じており、それがもたらした人類全体の苦悩に関しても「義務」を負っていることを自覚していたように思われる。
しかしながら、彼がそれを公の場ではっきりと表明することはほとんどなかった。それは彼が戦後巻き込まれたマッカーシズム運動による科学者としての特権の剥奪や、アメリカ国内において原爆投下の是非を論じることの政治的な難しさに起因するかもしれない。晩年のオッペンハイマーが、自らの責任をはっきりと「表明しなかった」ことに対して罪悪感を感じ、それに苦しんでいたことは間違いない。それは彼が若いときに読んだプルーストから学んだ次のことの別の表現でもあった。それは「自分が引き起こす苦しみに対して無関心であることは、恐ろしい恒久的な残虐性の形である」ということである。
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