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人間の生きざまの問題としての水俣学——原田正純『いのちの旅——「水俣学」への奇跡』を読む

水俣病は実に巨大な奥深い事件である。水俣病に映してみると世の中のさまざまなことが見えてくる。この国のしくみや政治、経済、学問の在りよう、そしてわたしたちの生きざままで残酷に映し出してくれる。
百年前の足尾鉱毒事件は今もなお多くの人によって研究が続けられている。そこには開かれた参加型の学際的学問がある。その草の根に研究によって、現在なお、日本の近代化が炙り出されている。同様に水俣病事件も今後、百年も二百年も多くの人によって多角的に研究され続けられ、受け続けられていくものと信じている。それを意識して「水俣学」などと勝手に呼んで、次のように宣言している。
水俣学とはまだ模索中で定義も形もない。ただ言えることは、これはまさに人間の生きざまの問題であって、単なる医学の話でも机の上の話(理論)でもない。いのちの価値を大切に弱者の立場に立つ学問が水俣学である。

原田正純『いのちの旅——「水俣学」への軌跡』岩波現代文庫, 岩波書店, 2016. p.3-4.

原田正純(はらだ まさずみ、1934 - 2012) は、日本の医師。学位は医学博士。鹿児島県さつま町出身。ラ・サール高校、熊本大学医学部卒業。熊本大学医学部で水俣病を研究し、胎児性水俣病を初めて発見した。水俣病と有機水銀中毒に関して数多くある研究の中でも、患者の立場からの徹底した診断と研究を行い、水俣病研究に関して詳細な知識を持った医師でもあった。熊本大学退職後は熊本学園大学社会福祉学部教授として環境公害を世界に訴えた。2012年6月11日、急性骨髄性白血病のため熊本市内の病院から退院後自宅にて死去。享年77歳。

本書『いのちの旅——「水俣学」への軌跡』は、1999年に熊本大学を定年退職し、熊本学園大学で新たに「水俣学」という一連の講義を始めようとしていた原田が、その渾身の思いを綴ったエッセイ集である。原田が書くものは常に自分が見たこと、経験したことだけである。しかも長年の研究や調査と経験の高みに立って教訓を発しようなどという姿勢ではなく、自らが現地に立って苦悩し、得たものを伝えようとしていた。

原田の最初の研究テーマは胎児性水俣病であり、当時の定説では「水銀は胎盤を通過しない」ということになっていたが、それを覆した大きな発見であった。その後も胎児性水俣病の研究は、原田のライフワークとなった。この胎児性水俣病の発見においても極めて重要だったのは、患者の言葉だったと原田が振り返っている。ある胎児性水俣病患者の母親は、原田にこう言ったという。「考えてみてください。同じ魚を食べた主人と上の子は水俣病になったでしょう。その同じ魚をわたしも食べたのですよ。その時、わたしのおなかの中にはこの子が入っていたのです。わたしの食べた魚の水銀がこの子に行ったに違いないとです」と。原田は「しばしば、それからも素人の指摘が専門家の常識よりも正しかったことを経験する」と書いている

原田が構想した「水俣学」の出発点は、「人類にとってはじめての経験、負の遺産としての公害、水俣病を将来に活かす」ということであった。その内実は、水俣病患者そして公害被害者の前に常に立ちはだかる専門家といわれる人たちの虚妄と責任を問うことであり、それを「専門の壁を越える」、「専門家と素人の壁を越える」、「現地に学び、現地に返す」、「国境の壁を越える」と表現していた。その一つ一つが原田の生き方を示すものであった。

専門家の壁を越えるとは、公害水俣病において、知識と診断を独占する医学への批判であった。病気の専門家は医者ではなく患者であること、工場の専門家は労働者であること、地域をよく知っているのは地域の住民であること、そのことを分かって、そうした人々とともに学ぶことの重要性を指摘している。

また原田の姿勢は「治らない病気を前にして医者に何ができるか、何をすべきか」という患者からの深い問いかけに直面した末のものであった。原田は現地を訪れ、何かできると思っていた時に、無力である自分を突きつけられ、逃げずにつきあうことを選択する。それは「見てしまった者の責任」であり、それを自ら選び取るということであった。
水俣学の主張する「現地主義」とは、社会学や地理学あるいは人類学が行うフィールド調査とはいささか趣が異なる。現地主義に立つということは、実は現地に内在するさまざまな問題に向き合い、火の粉を浴びることもいとわないということを意味する、と解説で花田昌宣氏は述べる。というのも、水俣病とはすぐれて人間の問題であり、いのちの問題であるからだ。

「水俣学とはまだ模索中で定義も形もない。ただ言えることは、これはまさに人間の生きざまの問題であって、単なる医学の話でも机の上の話(理論)でもない。いのちの価値を大切に弱者の立場に立つ学問が水俣学である」と原田正純は高らかに宣言している。


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