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法を措定・維持する「神話的暴力」と法を超越する「神的暴力」——ベンヤミン『暴力批判論』を読む

暴力批判論は、暴力の歴史の哲学である。この歴史の「哲学」だというわけは、暴力の廃絶の理念のみが、そのときどきの暴力的な事実に対する批判的・弁別的・かつ決定的な態度を可能にするからだ。手近なものしかみていない眼では、法を措定し維持する暴力の諸形態のなかに、弁証法的な変動を認めるくらいのことしかできない。(中略)
神的暴力は、神話が法と交配してしまった古くからの諸形態を、あらためてとることもあるだろう。たとえばそれは、真の戦争として現象することもありうるし、極悪人への民衆の審判として現象することもありうる。しかし、非難されるべきもmのは、いっさいの神話的暴力、法措定の——支配の、といってもよい——暴力である。これに仕える法維持の暴力、管理される暴力も、同じく非難されなければならない。これらにたいして、神的な暴力は、神聖な執行の印章であって、けっして手段ではないが、摂理の暴力といえるかもしれない。

ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論 他十篇』岩波書店, 1994. p.63-65.

ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)は、ドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家。第二次世界大戦中、ナチスの追っ手から逃亡中ピレネーの山中で服毒自殺を遂げたとされてきたが、近年暗殺説もあらわれ、いまだ真相は不明。ベンヤミンに関する過去記事も参照のこと(「ドイツ悲劇の根源」、「ポストコロナの神的暴力」、「ベンヤミンの現在時」、「複製技術時代の芸術作品」)。

冒頭はベンヤミンの『暴力批判論』(1920年)からの引用である。この論考では、暴力がその性質や機能に応じてさまざまな形態に分類されている。その中でも重要なのが、「神話的暴力」(mythische Gewalt)と「神的暴力」(göttliche Gewalt)である。これらは対照的な概念として提示され、ベンヤミンの思想の中核を成している。

神話的暴力とは、法を創設し、維持する暴力である。神話的暴力は権威の基礎を築き、それを維持するために行使される暴力を指す。ベンヤミンによれば、神話的暴力は権力や法の正統性を確立し、それを支える役割を果たす。しかし、同時にこれは抑圧的で、暴力を通じて支配を維持する
神話的暴力の特徴は、「罰」による支配である。この暴力は、法が人々を従わせるために必要な恐怖や制裁のシステムを強化する。ベンヤミンは、神話的暴力が不正義の温床となると批判する。それは法の支配の下での抑圧や不平等を正当化するものだからである。

一方、神的暴力は、神話的暴力に対立する概念であり、法を破壊する暴力である。これは、既存の法的秩序や権力構造を根底から覆す超越的な力として描かれる。この暴力は「純粋」であり、罰を伴う神話的暴力とは異なり、贖罪や解放をもたらす。神的暴力は、道徳や法の枠組みを超えており、人間の視点では正当化も説明もできないものを表現している。

例えば、神的暴力は旧約聖書のエピソードに関連付けられることが多く、特に「神の審判」や「贖罪」といった概念が想起される。ベンヤミンは神的暴力を、正義そのものが実現される瞬間として捉えている。つまり、神的暴力は、救済と解放を可能にする。それは、抑圧的な秩序を打破し、新たな可能性を切り開くものであり、正義の根本的な回復を目指すものである。

ベンヤミンにとって、神話的暴力は現代社会における不正義や抑圧を象徴しており、それを克服する必要があるとされる。一方で、神的暴力はベンヤミンの「メシア的時間」(Messianische Zeit)や「救済」の概念と深く関わっている。それは、革命的な断絶によって新しい可能性を生み出すものであり、単なる破壊ではなく、解放を伴うものである。

このように、ベンヤミンは神話的暴力と神的暴力を通して、暴力の本質や正義の可能性を問い直した。これらの概念は、現代の政治哲学や批判理論にも大きな影響を与え続けている。


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