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日本人の思考の原型としての「ワタシ」——高取正男『日本的思考の原型』を読む

日本人にとって、食器は所持者の実存の象徴としてあつかわれてきた。それは個人の私権を擁護するさまざまな制度など、およそ近代社会の創出した理性の産物とちがい、それ以前の、より根元的な世界に所属している。(中略)
すでに述べたように、一寸の虫にも五分の魂は、それなりに鋭い自己主張をもっていた。その個人意識は未成熟という意味で半意識の状態であったかもしれないが、それだからこそ、逆に個人の実存には完結した霊性のかがやきが無条件にみとめられ、そこに一定の呪的能力が信じられていた。
前近代の論理と思考は、分析的言語と概念による近代人のそれとは、およそ次元を異にしている。ことがらの孕んでいる相互に矛盾しあう側面、たがいに背反しあう諸機能も、ことがらのありように即して全一的に把握されている。分析にもとづく諸概念の呈示ではなく、比喩による全体の捕捉と、事物による象徴とが、思考作業の根幹である。(中略)
必然的に、これらは枕とおなじく、余物でもって代替できない霊的特質をそなえ、使用者の霊力が内在すると信じられてきた。こうした思考方式によって存在が具象化され、意識化されてきた個人のありようは、近代的自我とちがって分析的に呈示できないのはもちろんである。しかも現在の私たちが抱いているきわめて理性的な自我意識の内部に、霊力をはらむ事物によって象徴するしかないような、如上の前論理的な個人意識が、エゴの本性のようにして伝承され、潜在していることを認める必要があると思う。

高取正男『日本的思考の原型:民俗学の視角』ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 2021. p.16-26.

高取正男(たかとり まさお、1926 - 1981)は、日本の民俗学者・歴史学者。専攻は、民俗学・日本文化史。京都女子大学教授、国立民族学博物館客員教授をつとめ、民俗学と歴史学の融合による新しい文化史の構築に取り組んだ。『神道の成立』『宗教以前』など著書多数。

本書『日本的思考の原型:民俗学の視角』(1975年)は、自分の湯呑みを他人に使われてしまったときの気まずさなど、日本人独特の感覚や習慣を形作ってきたさまざまな事例を挙げ、近代的な自我と無意識下の前近代が交錯する日本人の精神構造を明らかにするものであり、民俗学の恰好の入門書である。

高取によると、「民俗学」は広い意味では歴史学の分野に入る。ただし、歴史学が主に文献史料を対象にして、それを時間的に整序して分析するのに対し、「民俗学」は、日本人が日常無意識のうちに行っている生活習俗や、各種の伝承を対象として、それらの歴史的由来を明らかにしようとする。つまり、「民俗学」は、現在の私から出発する「現在学」なのであると、高取は述べる。

なぜ「ワタシの茶碗」を家族といえども他人が使用すると、違和感を覚えるのか。あるいは、葬儀の出棺の際に、故人の使用していた茶碗を割る習わしがあるのはなぜなのか。高取はこうした例から、「モノ」と一体になった「ワタシ」が、私たちの通常の意識下にあると考える。それを「エゴの本性」と名づけ、日本的思考の原型だとする。つまり、近代以前の日本人には、なんらかのモノ、あるいは所属する家族や組織、地域に一体化させて自分を認識する傾向が強かった。

「ワタシ」は、近代以前の個人意識なのだが、高取は、しばしば「一寸の虫にも五分の魂」の「五分の魂」、あるいは「意地」(『仏教土着』)とも呼ぶ。その特徴として高取は二つのことを挙げている。
一つは、前近代の意識である「ワタシ」の外延は思いのほか広いということである。例えば、自分が所属する組織、勤めていた企業なども「ワタシ」に入る。つまり個人の自立を前提とする近代的自我に対して、「ワタシ」は自己を取り巻く諸々の関係を優先させて自己を意識するものだからであろう。
もう一つの特徴は、近代の自我が、家やムラなどと対立することによって形成されてゆくのに比して、「ワタシ」は所属する共同体に自己を同一化することによってはじめて存在することができたという点である。この「ムラ」には安全弁としての役割もあったと高取は言う。その特徴がよく分かるのが「寄合い」である。「寄合い」では、近代の会社の会議などとは異なり、メンバーがすべて納得ゆくまで話し合う。つまり、それぞれの「ワタシ」が納得することそのことが「寄合い」の目的なのである。つまり、こうすることで「ワタシ」が共同体から脱落することがないようなセーフティーネットとなっているのである。

本書で一貫して強調されていることは、日本人の思考が世間の常識とする考え方、見方につきているのではなく、かならず、もう一つの思考や感覚が、まるでその「影」のように付随しているという点である。
しかも、その「影」の部分に気づくことはとても難しい。だから「正統」(表向き)の思想や感じ方だけで物事を進めると、思わぬ壁にぶつかることが生じる。大切なことは、そのとき、なぜこのような事態に至ったのかを、わが身をふり返って「内省」することである。「内省」こそ、高取の「民俗学」を支えるキーワードであると、宗教学者の阿満利麿氏は本書の解説で述べている。

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