言葉の多義性・多声性で現実をかく乱する——コロナ時代の言語の可能性
青土社「現代思想」の2020年5月緊急特集号「感染/パンデミック―新型コロナウイルスから考える」より、ロシア文学研究者の越野剛氏の論考からの引用である。新型コロナウイルスに関して飛び交う情報や言葉の洪水に対して、私たちは呆然としてしまうところがあった。それは、ある事象に関する情報が「翻訳」される過程で、互いに矛盾する多様な意味、解釈、物語が生まれてしまうことも一因だ。しかしながら、そうした意味の混乱は人間の言葉の限界でもあり、同時に文学や芸術にとっては豊かな源泉とも言える、と越野氏は述べる。この論考では、ロシア文学において、目に見えないリスク(病気、疫病、放射能)が、どのような言葉で表現されてきたかを、19世紀の作家ドストエフスキーや現代ベラルーシの作家アレクシエーヴィチの事例にそって考察されている。
ドストエフスキーは長編小説『悪霊』において、コレラの禍々しいイメージを取り入れている。『悪霊』の物語は、リベラルな旧世代の人々からラジカルな新世代の人々が生み出されるという構図になっているのだが、その広がり自体が感染症のメタファーで描かれる。また、病気のメタファーを利用するにあたり、ドストエフスキーは言葉そのものが持つ伝染性をプロットの中に巧みに取り込んでいる。影響力のある思想は病気のように伝染するのであり、その思想はそもそも言語によって構成されているわけである。
また『地下室の手記』の偏屈な引きこもりの語り手は「意識は病である」と言い切る。意識が言語で構成されているとするなら、人から人に伝えられる言葉は伝染病に喩えられる。ドストエフスキーがより多くの注意を払うのは、言葉と自意識という病気を患いながらも、それと格闘する人間の姿であったろう、と越野氏は述べる。
また、アレクシエーヴィチの『チェルノブイリの祈り』は、広範囲における放射能汚染という人類がそれまで経験してこなかった状況下での暮らしを、抽象的な数字ではない日常の言語で表現する試みであった。原発事故の被災地はウクライナ、ベラルーシだが、いずれも第二次世界大戦でナチス・ドイツに占領された過酷な思い出がある。アレクシエーヴィチは、被災者たちの過酷な記憶の語りの中にときおり表れる「ジョーク」あるいは「アネクドート(一口話)」に注目する。
「リンゴはいかがかな。チェルノブイリ産のリンゴだよ」
「おばさん、チェルノブイリなんて言ったら誰も買わないよ」
「いやいや、売れるとも。姑やら上司やらにって買う人がいるからね」
越野氏は、こうしたユーモアの意義を「笑いの作用によって不条理な現実が受け入れやすいものとして言語化されている」と述べる。これも、アレクシエーヴィチが言う、それまで経験したことのない状況に人間が投げだされたときに身につける「新しい規範や実践」の一つと考えることもできるだろう。
パンデミックや原発事故・放射能汚染といった危機の際に、言葉はいかなる役割を負うことができるのか。それはおそらく正確な情報伝達やデータの共有といったもの以上であるはずだ。特に文学者や哲学者たちは、そうした「多義的・多声的な言葉の芸術」に期待をかけ、積極的に現実を「かく乱」していく試みを行なっていくべきではないだろうか。