愛知者は死にどのように臨むべきか——プラトン『ソクラテスの弁明』を読む
ソクラテスの「無知の知」は有名な言葉であるが、少し誤解されているところもある。「無知の知」とは、「自分が何も知らないということを知っている」というよりは「自分が知らないことを知っているとは思っていない」ことである。「不知の自覚」という言葉でそれを区別する人もいる。ソクラテスの実際の言葉を引いてみよう。
そして、この不知の自覚のソクラテスの態度は、「死」に対しても向けられている。冒頭の引用がそれである。「愛知者」すなわち知を愛する者としての責務は「不知の自覚」の態度を徹底することである。愛知者としてのソクラテスは、死を怖れることは愛知者としての責務に背くと考えている。なぜなら、死を怖れることは自ら賢ならずして賢人を気取ることになるからである。つまり、死というものに対して何も知らないのに知っていることを装うことになるからである。
死を怖れるとはどういうことであるか。ソクラテスによれば、それは、死というのものが人間にとって悪の最大なるものと信じることである。しかし、人間は死については何も知らない、知り得ないというのが、愛知者にとっての真摯なる真実である。したがって、愛知者としては、死というのもは人間にとって福の最上なるものか、逆に悪の最大なるものかは知らないということこそ、真摯なる態度である。それなのに、死を前にして、自ら信じることや自らが最も確信していることをねじ曲げることは、ソクラテスには全く考えられないことであった。死というものは、ソクラテスの態度を全く脅かさないどころか、死を前にして、死よりも自ら信じるところを主張し、愛知者としての態度を示すことが最も重要であったわけである。