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「進歩」とは何かを考えつづけた宮本常一——網野善彦『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』より

従来、江戸時代の百姓は、「生きぬよう、死なぬよう」、支配者に全余剰労働を搾取され、いつも生死の境をさまようような状況にあり、土を這いずるような生き方をしてきたとされてきました。これは少し極端かもしれませんが、いまだにそういうとらえ方が続いていると私は思います。これが江戸時代の社会に対する常識的な見方だと思いますが、それに対する宮本さんの強烈な反発がこの表現のなかにあると言ってよいと思うのです。「下層」の人びとを、インテリの「上から」見た立場で、一種の同情を含めて、その苦しさを強調することによって、「一種の非痛感を持ちたがる」ことは大いにありうるわけで、これはこうしたとらえ方で歴史や社会を見ることに対する宮本さんの痛烈な批判であることは間違いないと私は思います。(中略)
岩波文庫の解説でもこのことにふれておきましたが、晩年の宮本さんは、「いったい進歩とは何であろうか」と問い直され、これが「自分の長い間考え続けたひとつの大きな問題だ」と言っておられます。そしてこの問題が1960年のころには西日本と東日本の差異を、先進、後進という角度で処理することに対する批判、もうひとつは、過去の社会に生きた人びとを、現代よりも貧しく、低いレベルの生活をしていると考え、同じように、現代の社会自体のなかで「下層」の社会に生きる人びとを「卑小」に考える見方に対する批判という形で提言されていると思います。

網野善彦『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』岩波現代文庫, 岩波書店, 2013. p.125-127.

宮本常一(みやもと つねいち、1907 - 1981)は、日本の民俗学者・農村指導者・社会教育家。1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)、膨大な記録を残した。宮本の民俗学は、非常に幅が広く後年は観光学研究のさきがけとしても活躍した。民俗学の分野では特に生活用具や技術に関心を寄せ、民具学という新たな領域を築いた。

本書『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』は、歴史学者・日本中世史家の網野善彦氏が、宮本常一の代表作『忘れられた日本人』を、用いられている民俗語彙に注目しながら読みぬき、日本論におけるその先駆性を明らかにした書籍歴史の中の老人・女性・子供・遍歴民の役割や、東日本と西日本との間の大きな差異に早くから着目した点を浮き彫りにし、宮本民俗学の真髄に迫っている。

網野氏は最晩年の宮本の発言に注目する。それは「進歩とは何なのだろうか」、「発展とは何なのだろうか」ということであった。私たちは進歩という名のもとに実にたくさんのものを切り捨ててきたのではないか、という問題意識である。『忘れられた日本人』は、宮本が社会の進歩、発展に確信をもって動いていた時期から、進歩とは、発展とは何か、そこで切り落とされてきたものの中に非常に大事なものがあると発言しはじめる、その過渡期に書かれたものだという。

『忘れられた日本人』は1960年発刊であるが、宮本はその後の民俗学や人類学で潮流となる遍歴民や移動する人びとのあり方についてすでに着目しており、この本でそれらを先取りしていた。この本のテーマの一つは女性・老人・子供、および遍歴をする人びとだと網野氏は語る。さらに、もう一つのテーマは、日本列島の社会のあり方が一様ではなく、東日本と西日本との間に大きな差異があるということである。そしてそれを、発展段階として考えるのではなくて、社会の構造、あるいは質の違いと捉える必要があるのではないかというのが、宮本の主張だったと網野氏は見ている。

例えば宮本は、東日本は父系社会であり、西日本は母系社会であるという。同様に、東日本は家父長制社会であるのに比べて、西日本は年齢階梯制がみられると指摘する。東北から北陸にかけては、老人が年をとるまで家の実権を握っている場合が多いのに対して、西日本では、ほぼ同年齢の者が集まって「講」のような組織をつくっている。その事例として宮本はこんな例を挙げている。敦賀の西(若狭と思われる)では、10人ほどのお年寄りの女性たちが、道端の観音堂で観音講のお籠もりをしており、6時になるとこのお堂のなかに入るのだが、そこはお嫁さんの悪口を言う講だと皆が言っていたというのである。このように同年齢の者が集まって、勝手な話をすることによって、ストレスを発散し、村のなかの平和を保つ機能が、講にはあると指摘した上で、このような傾向は全般的にみて西日本に強いと宮本は言っている。宮本はそれを年齢階梯制と規定し、一定年齢に達すると、老人たちが隠居する仕組みになっていたという。

また、年齢階梯制が明瞭なところは、非血縁的な地縁集団も比較的強いと宮本はいう。もちろん、同族集団もあるが、それが集団の原理にはならず、非血縁的な地縁集団が村の構成原理になっていると指摘する。その事例として「松浦党(まつらとう)」よ呼ばれる北西九州の海の領主たちの一揆について触れている。この一揆は、集会のときにクジを引いて、署名・発言の順序を定めており、多くの人びとの連署した契約の文書が残っている。この組織には松浦一族でないものも加盟していて、さまざまなことを自治的な会合で取り決めていた。時代が下ると、海について網庭、漁場の使い方の取り決めを規定するということもやっている。宮本は、こういう領主たちの横の結びつき、一揆という神の前に平等であることを誓うような組織が、西日本の特徴だとしたわけである。宮本は、東日本を男系中心の「党」の結びつき、西日本を「一揆」の結びつきとして代表させている。

その上で、この東日本と西日本の差異を、先進・後進という視点でみることに宮本は大きな疑義を呈していた。地域的な差異、東日本と西日本の差異を先進と後進という形で簡単に割り切ってはいけないのではないかと宮本はいう。同様に江戸時代の農民を悲惨な暮らしをしていた人びとと考える見方にも批判を向ける。それは「下層」の人びとを、インテリの「上から」目線で、一種の同情をこめて、その苦しさを強調することによって「一種の非痛感を持ちたがる」姿勢である。宮本は、地域的な差異を先進・後進という角度で処理する態度に対して極めて批判的であり、同じように過去の社会に生きた人びとを、現代よりも貧しく、低いレベルの生活をしていると考え、彼らを卑小にみる見方を痛烈に批判していた。その根本には、いわゆる「進歩」という考え方に対する疑問があり、その疑義を明確に提示していたのが『忘れられた日本人』という著作だったと網野氏は考えている。


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