人間の「本源的善性」と嘘の関係——桑瀬章二郎氏『嘘の思想家ルソー』を読む
ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712 - 1778)は、フランス語圏ジュネーヴ共和国に生まれ、主にフランスで活躍した哲学者、政治哲学者、作曲家。彼が残した著作群『学問芸術論』『人間不平等起源論』『新エロイーズ』『エミール または教育について』『社会契約論』『告白』『孤独な散歩者の夢想』などは近代社会における自由や平等の思想に大きな影響を与え、いまだに哲学・思想界における偉大な思想的記念碑として屹立している。しかしながら、ルソーの思想は近大思想史においても簡単な位置づけを拒むような独自の光を放っているというのも事実である。その証拠に、例えば彼が『社会契約論』で論じた「一般意志」の考え方は、さまざまな誤読や批判をされ、すでに思想史上解決済みの問題であるにもかかわらず、それを全体主義あるいは集団主義の教義の基本原理として読み解こうとする試みがある。
本書『嘘の思想家ルソー』は、フランス文学・思想研究者の桑瀬章二郎氏が、ルソーが「嘘」をめぐる徹底した特異な思考を展開した思想家であったことを明らかにする著作である。桑瀬氏は、私たちがルソーを読むとき一種の「困惑」を感じてしまうと述べる。それは、彼の思考があまりにも根源的(ラディカル)であるがゆえに、読む者を動揺させる何かである。既成の思考法に徹底した懐疑を突きつけ、私たちの価値観に根底から揺さぶりをかけるような何ものかである。桑瀬氏は、ルソーのさまざまな著作を彼の「嘘」をめぐる透徹した思考法という観点から読み解いていく。
『告白』(1770年)で最初に呈示されるのが「盗まれたリボン事件」である。少年時代ある伯爵夫人の家で下僕として働いていたルソーは、ある盗みを働いてしまう。それは薔薇色と銀色の小さなリボンだった。それが紛失したことが明るみに出て、問い詰められたルソーは、別の召使マリオンが自分にそれをくれたのだと嘘を言ってしまう。罪を着せられたマリオンは言い返すことができず、ルソーの罪はうやむやになってしまう。このときついた嘘はルソーの「良心」を一生涯にわたって苦しめることになる。あのときついた「嘘」とは何だったのか。人間の本源的善性を信じるルソーにとって、善であることと嘘をつくことは矛盾するのか。嘘をつくことが許される場合はあるのか。真理に対して誠実であるとはどういうことか……。そうしたことが、『告白』だけでなく、『人間不平等起源論』や『エミール』など、ルソーのほぼ全著作にわたって追求されているのではないか、というのが桑瀬氏の論点である。
『告白』では、マリオンとリボンの挿話の後にも、さまざまな局面で窮地を脱するために、ルソーがくり返し虚言や偽装に頼るのを読者は目撃することになる。つまり『告白』は、一少年の社会的転落と悪徳としての嘘の一般化の物語、しかし過酷な社会状態に置かれても、人間の「本源的善性」を保持し続けようとするある人間の嘘との闘争史としてみることができるのである。『エミール』は、エミールという名の少年を理想の家庭教師の監視のもと、あらゆる社会的悪徳から遠ざけて「本源的善性」を保持しつつ成長させるための物語ということができる。ここには、人間には生来「本源的善性」が備わっており、それを損なうことなく成長させることが重要だというルソーの信念があらわれている。ルソー自身は、エミールとは全く異なる社会的環境のもとに置かれて育ったわけだが、それにもかかわらず、自然に備わった善性を失うことはなかった(とルソーは信じていた)。『告白』の語り手が目指すのは、その少年時代の裁きの場で用いられた嘘であれ、ルソーの「本源的善性」を否定するものではないということを、新たな裁き手である読者に対し説得することにあったのである。
『孤独な散歩者の夢想』(1778年)では「嘘について自らを検討する」という、ルソーの嘘をめぐる最も有名な考察が展開される。ここでもやはり、少年時代のリボン事件における嘘から考察が始まっている。考察の冒頭でルソーが立てる問いは二つである。(1)仮に常に真実を語る必要があるとは限らないとなると、「いつ、どのように」真実を語る必要が生じるのか、(2)はたして人を欺いても罪にならない場合はあるのか、という問いである。ここではモンテーニュの『エセー』における真実と嘘への考察、グロティウスの『戦争と平和の法』における虚言についての考察などが対照的に論じられる。しかしルソーが貫いた根本原理とは、公的利害にかかわる真理は、いかなる場合であれ秘匿されてはならないというものだった。
第二の問いについてルソーは、「真実であることを述べないこと」と「誤謬であることを述べること」をまず区別する。さまざまな論点を検討した上で、ルソーは結局のところ、近代自然法論者たちの主張に反し、人は常に誠実であるべきであり、嘘は常に不正であると考えるのが最も明快であると述べる。ルソーが自らの経験から導き出したのは、「理性の光」ではなく「良心の指示」に従うという、『エミール』で論じられた方法である。こうした主張の後、論点は善悪の判断基準へと移行し、「結果」ではなく、あくまで話者の「意図」に基づいて善悪が判断されるべきだとの主張がなされる。
ルソーは『告白』や『孤独な散歩者の夢想』において、「誠実、真実、率直」という立場を極限まで推し進めている。それにもかかわらず、入念に検討してみると、その『告白』にさえ、嘘と呼ぶべきではないにしても、いくつかの粉飾や欠落が紛れ込んでいることをルソーは認める。『孤独な散歩者の夢想』の最後には、これまでの議論を振り返りつつ、突然こう自問する。「他人に対してどういう義務があるかということはこれほど入念に考察しながら、自分に対してどういう義務があるかということはじゅうぶんに検討したろうか」と。人間は他者に対してのみならず、自己に対しても誠実であらねばならない。つまり、ルソーは自らの「弱さ」にまで言及し、「徳」の実践に不可欠な「力」が欠けていたことを認め、「真理に命を捧げる」という座右の銘にはたして自分がふさわしい存在であったかということを、今一度厳しく問い直すのであった。
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