M・ガブリエルの「新実存主義」——ポスト自然主義の時代の「心」の哲学
マルクス・ガブリエルはドイツの哲学者。1980年生まれ、ボン大学教授。著書に『なぜ世界は存在しないのか』、『「私」は脳ではない——21世紀のための精神の哲学』などがあり、新実在論を唱える気鋭の哲学者である。
この本『新実存主義』でガブリエルは、ニーチェ、キルケゴール、サルトルなどの実存主義者たちの系譜を受け継ぎながら、「心」をどう考えるのかという観点から「新実存主義(neo-existentialism)」という考え方を提唱する。
まずガブリエルは、いわゆる「心脳問題」(心と脳はどのような関係にあるのか)に関して、「心」とは脳の唯物論的な現象として説明できるという自然主義的な考えは、もはや成り立たないということをさまざまな観点から論証する。彼が反駁するのは「ニューロン中心主義」と呼ぶイデオロギーである。ニューロン中心主義には「ニューロン熱」と「ダーウィン炎」がある。ニューロン熱とは、脳(神経回路)を心的語彙(心に関連するさまざまな言葉)に対応する物質と考える見方を指している。また、ダーウィン炎とは、人間のあらゆる行動を進化生物学や進化心理学の観点から説明しようとうするものである。こうした考え方は、貧弱なデータを乱暴に一般化しすぎたものでしかないとガブリエルは言う。
新実存主義の考えでは、「心」に関してポスト自然主義的なあらたな見方を提唱する。それは「心」という一個の現象や実在などありはしないという見解である。「心」や「意識」という概念は、「思考」「認知」「意志」「感情」「情動」「自意識」「気づき」といった心を表す一群の関連する言葉とともに、大きな説明の文脈で導入される。新実存主義では、「心」という現象は、明らかに物理的なものも現実に存在しないものも幅広く含む、ひとつのスペクトル上に位置づけられると考える。そして、私たちがそのようなさまざまな現象が包摂される雑多な概念として「心」を使う理由は、人間が自分を他の動物や物理的世界から区別しようとする試みに由来している。つまり、人間には機械や動物にはない「心」があるからこそ、人間らしさを持つという考え方である。
ガブリエルの立場は反自然主義、反唯物論である。つまり、「心」とは脳内の神経回路や物質的なものに還元できないと考える。しかしながら、単純な反唯物論ではない。そもそも「心」という包括的な実在はないとする考え方である。これは、彼の「新実在論」の考え方、つまり、「世界」という全ての実在が含まれる全体的な場は存在しないという考え方ともパラレルなものである。
ガブリエルの「心」の哲学としての新実存主義は、私たちを勇気づけてくれるものである。なぜなら、人間存在の機械論的な説明へのアンチテーゼであるからだ。つまり、私たち人間が「人間」をどう考えるかという信念は、私たちの生き方に直結する。私たちは複雑な生物学的な機械にすぎない、あるいは、人間の心とは複雑な神経回路の表現型にすぎないという機械論的・自然主義的説明では、私たち人間と複雑な機械(人工知能)の差異はなくなってしまう。こうした誤った信念は、私たちの行為主体のあり方を悪い方向に変えてしまうとガブリエルは危惧する。
ガブリエルの新実存主義では、「心」という用語があまりに雑然としている(無数ともいえる意味合いで用いられており、その意味も時代や場所で大きく変わる)ため、問いを立てるときに用いる用語として適切ではないと考える。その代わりに、ガブリエルはドイツ語の「ガイスト Geist(精神)」という用語を用いる。これは英語の「mind(心)」とも「spirit(魂)」とも等価ではないという。ガブリエルが「ガイスト(精神)」という言葉で表現したいのは、私たちの自己表象、自分が何者であるかの多様な説明(しばしば物語を介した説明)に関連している。つまり、私たちの社会や歴史や政治の領域において、「虚構」の物語をつむぐ私たちの能力に根ざしたものである。ここで「虚構」という言葉は、ガブリエルにおいては「実在」の一つとして扱われていることにも注意してほしい。
私たちが「心」や「意識」として表現しようとする何かは、唯物論的なものに還元はできないし、単なる虚構でもない。それは実在する何かであり、私たち人間の知的活動を特徴づける何かであり、動物や複雑な機械とも区別できる何かである。それは、私たちの自己理解や自己表象と密接に関連しており、人間の「概念」に依存する現象として「ガイスト(精神)」と呼ぶべきものである。そうした考え方を「新実存主義」は表していると言えるだろう。