世阿弥の「器」と「曲」——教育にとって本質的なことは何か
本書は教育学者・哲学者の西平直氏の2019年の著書『ライフサイクルの哲学』より、「タイムスパンを長くとる・短くとる」という章の引用。教育論である。具体的には、シュタイナー学校の卒業生への「教育の効果」に関する調査から話が始まっている。
しかし、西平氏は、卒業生へのインタビューをしているうちに調査を途中でやめることを決意する。それは、単なる研究者として感じた挫折というよりは、もっと大きな価値転換だった。彼が感じていたのは、本物の「感動」であった。魂が震えるような感動。そして「調査」や「研究」というものがそれを台無しにしてしまうだろうという予感。彼はある卒業生の女性へのインタビューをしながら以下のようなことを感じる。
「教育の成果」とは何だろうか。私たちはあまりにも短いスパンで「成果」なるものを見極めようとしていないか。表層的な「評価」なるものでいつも教育を論じようとしていないか。私たちは学習者の外側だけではなく「内側」を見ようとしているのか。「内側」とは何か。本当の「成果」はいつ、どこに、どのように表れるのか。そういった問いに、西平氏は真摯に向き合っていく。
そして、世阿弥の「器」と「曲」という考え方が参照される。「器」は芸を習い始めると大きくすることはできないというのである。私たちの「器」はいつ形成されたのか。そして、私たちはいつも「技芸」ばかりを教えようとしていないか。本当に大事な「器」を形成する教育とはどのようなものなのか。
西平氏がインタビューをした人びとは、言うなれば「自分の内面を大事にする」という感じがあったという。それはその他にもさまざまな言葉で表現(分節化)されるものの、西平氏はその「何か」は言葉ではうまく分節化できないと感じる。それは言葉で表現できる以上の何かである。そして、それは世阿弥の「曲」の考えにも通じるものだ。私たちは節を教えることはできる。しかし「曲」そのものを教えることはできない。なぜなら、曲は分節化できないからである。しかし、「曲」は常に学習者によって感じ取られているものでもある。それは、私たちの根本的なところに宿っている全体的なものである。つまりは「器」に根ざすものなのだろう。