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荘子の「遊(ゆう)」の思想とは——『荘子』を読む

北の彼方、暗い海に魚がいる、その名を鯤(こん)と言う。鯤の大きさのほどは、何千里あるのか計り知ることができない。やがて変身して鳥となり、その名を鵬(ほう)と言う。鵬の背平は、何千里とも計り知ることができないほどだ。一度奮い立って飛び上がると、広げた翼は天空深く垂れこめた雲のよう。この鳥が、海のうねり初める頃、南の彼方、暗い海に渡っていこうとする。南の暗い海とは、天の果ての池である。⋯⋯
小さな知恵は大きな知恵に及ばないし、短い寿命は長い寿命に及ばない。何でそれが分かるのかと言えば、朝菌(茸の一種)は一ヶ月を知らないし、蟪蛄(蝉の一種)は一年を知らない。これが短い寿命の例である。楚の南に冥霊という木があり、五百年を春とし、五百年を秋としている。大昔には大椿という木があって、八千年を春とし、八千年を秋としていたとか。ところが今日、人間界では長寿と言うと彭祖(伝説上の長寿者)ばかりが名を知られ、大衆はこれにあやかりたいと願う。悲しいことだ。⋯⋯
世界全体である天地の真正(まこと)の姿に乗り、その森羅万象を六種の気の変化において操って、時空を越えた無限の宇宙に遊ぶ、という者になると、彼は一体何に依存するであろうか。そこで、「至人(道に到達した人)には自己が無く、神人(霊妙な能力の人)には功績が無く、聖人(最高の境地に達した人)には名誉が無い。」と言うのである。

『荘子 全現代語訳(上)』池田知久訳, 講談社学術文庫, 2017. p.52-56.

荘子(そうし、Zhuang Zi、紀元前369年頃 - 紀元前286年頃)は、中国戦国時代の思想家で、『荘子』(そうじ)の著者とされ、また道教の始祖の一人とされる人物である。姓は荘、名は周。字は子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。曾子と区別するため「そうじ」と濁って読むのが日本の学者の習慣となっている。『史記』には「魏の恵王、斉の宣王と同時代の人である」と記録されている。出身地は宋の蒙(現在の河南省商丘市民権県)とされる。

『荘子』という書物は、まことに魅力的なものである。魅力の秘密は文章にあるが、『荘子』の全体は、重厚な文章と軽妙な文章との複雑な交錯から成っている、と訳者の池田知久氏は述べる。
その「重厚さ」は、『荘子』が重大な問題、例えば、「我(わたし)」という人間が、人間と自然から成るこの世界の中で生きていくことに一体いかなる意味があるのか」という、人間の真の生を定立することにまつわる重大な問題を、自己の内面に向かって沈潜しつつ思索しているところから来る。同時にそれは、作者の思索の行く手にある、あの真の世界「道」それ自体の有する重さである。

また、『荘子』の軽妙さは、作者が世界の真の姿を捉えることのできない世間的な知を乗り越えていくときに、その行く手に真の世界があると予感されるところから来る軽さであり、また、自己の外面に向かって飛翔しつつ、人間としての自由や独立を獲得していくことの中にある軽さである。

『荘子』の中の軽妙な文章の代表例は「逍遥遊篇」であり、冒頭に引用したのがその文章である。この篇には「遊」の思想を表した文章がいくつか集めてある。「遊」という言葉は、中国古代以来の諸文献の中にしばしば現れる重要な概念であり、この言葉を含む「遊」の思想は、『荘子』の最も中心的な思想の一つである。

「遊」の基本的な意味は、世間的な知識と言葉の描く現実の世界「万物」から出て、人間としての自由・独立を可能にする、あの真の世界「道」に向かって進んでいくための根元的な飛翔である。

「遊」の代表的な意味は、以下の四点にまとめることができる。すなわち、「遊」とは、
一、あそぶこと、ひいては何らかの目的意識に導かれることのない行為である。
二、世間的な人間社会から外に出ていき、その狭小な視座を超越することである。
三、作為的人為的なものを棄て去って、自然に従って伸びやかに生きることである。
四、「万物」の一つである人間が、「万物」の世界から越え出て根源の「道」へと高まっていくことである。

つまり「遊」の思想のどの場合にも、思想家たちの人間の自由・自立に対する強いあこがれが表現されている。

「鵬」の「遊」は、現実の世界の空間と時間に縛られた「小さな人間」として生きるのではなく、ここから飛翔して「大きな人間」として自由・独立に生きることを可能にする、「道」の世界に向かって飛んでいこうと試みている。

しかし、作者はこの「鵬」の大きさをさらに超える、真の大きさがあると考える。それは「その天地の正に乗りて、六気の変を御し、もって無窮に遊ぶ者」という「至人・神人・聖人」である。作者が「鵬」をなぜ真の大きさと認めないのかと言えば、作者の理想として求めている真の「大きさ」が、一方で、時間と空間に束縛されている「万物」の相対の大きさを越えた、世界の主宰者である「道」の絶対の「大きさ」だからである。また他方で、「鵬」の場合にはまだ欠けている、いかなる他者にも依存しない主体性の確立、あるいは自由・独立の獲得であり、具体的には、無限に拡がるあの「道」の中に進出していくことを通じて、「道」の「万物」を存在・変化させるなどの能力を獲得し、その結果、自分自身がついに世界の主宰者となることだからである。


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