自己の再帰的プロジェクトと「経験の隔離」——ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』を読む
アンソニー・ギデンズ(Anthony Giddens、1938 - )は、イギリスの社会学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス名誉教授。ブレア政権のブレーンとして「第三の道」「ラディカルな中道」を提唱したことでも知られる。再帰的近代化の理論を構築し、後期近代における社会の特徴を「再帰性」「脱埋込メカニズム」などの概念で理論化している。ギデンズの脱埋込メカニズムと再帰性についての過去記事、ルーティンによる存在論的安心に関する記事も参照のこと。
本書『モダニティと自己アイデンティティ:後期近代における自己と社会』は、ギデンズの1991年の著書であり、再帰的近代化の理論の全体像を知ることができる書籍である。
本書のイントロダクションにおいて、本書の内容を概観しつつ、ギデンズは彼の再帰的近代化に関する様々な概念を整理して提示している。
最初の章では、モダニティの制度的再帰性について、また近代社会生活の深いレベルでの時間と空間の再組織化過程を説明する。これには「脱埋め込み(disembedding)メカニズム」の拡張が働いている。これは、社会関係を特殊な位置づけの呪縛から解放し、広範な時間-空間のなかに再統合するメカニズムである。
モダニティでは根本的な「懐疑」の原理が制度化されており、そこではすべての知識は仮説のかたちを取らざるを得ない。したがって、後期近代(ギデンズはそれをハイ・モダニティと呼ぶ)においては、自己は、自己が存在する広範な制度的文脈と同様に、再帰的に形成されなくてはならない。
不確実性と多様な選択肢が存在する近代では、信頼とリスクの概念が重要となる。「信頼」とは、人格発達における重要な一般的要素であり、同時に「脱埋め込みメカニズム」および「抽象的システム」が作用する世界に、明学で具体的な関係がある。信頼は、日常生活が伝統的な内容を抜き去り、グローバル化をお膳立てする抽象的システムを媒介するものである。ここでは信頼は、実践的な活動において必要になる、あの「信仰(faith)への跳躍」を生み出す。
また、モダニティとはリスク文化である。これは、社会生活が本質的に以前よりもリスキーになったという意味ではない、とギデンズは釘を刺す。リスク文化とはむしろ、リスクという概念が、素人の行為者と技術的専門家の両者にとって社会的生活を組織する際に必須のものになった、ということを意味する。モダニティという条件のもとでは、知識環境の再帰的組織化によって未来が絶えず現在に引き込まれている。いわば、未来の領域が、切り開かれ植民地化されているのである。
後期近代=ハイ・モダニティは終末論的な性格を持っている。それは世界が不可避的に崩壊に向かっているからではなく、前世代が直面せずにすんだリスクを引き起こすからである。社会生活の外部にある現象としての自然は、ある意味で「終焉」を迎えた。この「自然の終焉」の後、エコロジカルな破局のリスクは不可避的に私たちの日常生活の背景の一部となっている、とギデンズはいう。
モダニティのポスト伝統的秩序の中で、自己アイデンティティは再帰的に組織される試みとなる、とギデンズはいう。この「自己の再帰的プロジェクト(reflective project of the self)」は、一貫した、しかし絶えず修正される来歴のナラティブにその本質があり、抽象的システムを通した複数の選択のなかで実行される。
ギデンズは後期近代において「親密な関係の変容」が起きたという。親密な関係は、独自の再帰性と、内的に準拠する秩序をもつ。ここで重要なのは、個人の生活の新しい領域にとって原型的な関係となる「純粋な関係性」が登場することである。純粋な関係性とは、外的基準がそこでは解消してしまうような関係性である。純粋な関係性の文脈では、信頼は相互の開示過程によってのみもたらされる。言い換えれば、信頼はもはや、関係それ自身の外部にある基準(血縁、社会的責務、伝統的義務など)に繋ぎ止められることはない。
また、ギデンズは後期近代において「経験の隔離(sequestration of experience)」という現象が起きているという。近代的制度の一般的な水力は、モダニティ独自の力学に即して組織されており、「外的基準」から切り離された行為環境を創造する。この結果、日常の社会生活は「原初的」な自然、実存的問題やジレンマをかかえる多様な経験から切り離されるようになってきた。精神障害者、犯罪者、重病者は一般住民から物理的に隔離され、「エロティシズム」は「セクシャリティ」にとって代わられる。「経験の隔離」とは、多くの人々にとって、個人の人生を道徳や人生の有限性などの多くの問題に結び付ける出来事・状況との直接の接触がまれになり、避けられやすくなる、ということを意味している。
この「経験の隔離」とは、フロイトが考えていたような罪悪感の心理的抑圧によるのではない。むしろ起こっているのは制度的抑圧なのであり、罪悪感のメカニズムというよりは羞恥のメカニズムが全面に出たものだという。つまり、自己アイデンティティがまずます再帰的になるに従って、そこでは羞恥のメカニズムが強くなり、その結果、制度的抑圧として「経験の隔離」が起きている、とギデンズはいう。
ギデンズが「経験の隔離」と呼ぶものは、例えば、狂気、犯罪、病気と死、セクシュアリティ、自然などの隔離である。しかしながら、経験の隔離は、近代という状況下において、日々の生活の相対的な安心を幅広く確立するための条件ともなっている。その効果とは、いわば脇に押しやられた人間生活の基本的な道徳的・実存的構成要素をまとめて抑圧すること、だといえる。こうした経験の隔離によって、自己アイデンティティは相対的に安心な日々の生活環境を作り上げている。いわば、狂気や犯罪、死など「逸脱」するものを隔離することによって、「ルーティン」という標準的日常を確立する。ルーティンは、近代社会において存在論的安心を維持するための基礎となっている。
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