「バイオポリティクス」としての近代医療——美馬達哉氏の『生を治める術としての近代医療』を読む
美馬達哉(みま たつや、1966 - )氏は、日本の医学者、医師。立命館大学先端総合学術研究科教授。専門は、臨床脳生理学、医療社会学、生命倫理、現代思想。本書『生を治める術としての近代医療』は、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』を中心にさまざまな彼の著作を読解しつつ、フーコーの論じた鍵概念である「生政治(生権力)」を、現代的文脈で「創造的に誤読」し、ある意味ではフーコーを裏切りつつ、生命(バイオ)をめぐる政治学(ポリティクス)としての「バイオポリティクス」の問題設定を提示している。それは、従来の国民国家という枠を超えたグローバリゼーションの拡大、従来の「人間」という枠を超えた生物医学技術や情報通信技術の深化を、どうとらえるかという視点の問題である。
本書における「バイオポリティクス」という言葉は、フーコーが用いた「生政治(生権力)」とは異なる意味で用いられている。「生政治」はフーコーによって定義された概念であり、美馬氏のいう「バイオポリティクス」はそうした概念を必要とした問題設定あるいは、21世紀の現在になってようやく明確な輪郭を描き始めた生と政治をめぐる思考の運動そのもの(どこにも提起されたことのない質問)を指し示す用語として用いられている。それはフーコーが生きていた20世紀における「生」と「政治」をめぐる状況が、21世紀に至って大きく変化してきていることを背景としている。
「バイオポリティクス」という言葉の問題設定の背景として、一つには、1970年代以降のバイオテクノロジーとして総称されるような科学技術の出現がある。その現状として、こうした科学技術は外的自然だけでなく、生命をも対象とすることによって従来とは質的に異なった問題が生まれつつあるという。それは人間がもはや「神の似姿」ではなく、生物の一種に過ぎない生物学的存在とみなされていることである。農作物や家畜に改良を加えるように、その遺伝子改変技術は、同じ生命である人間自身に対して用いることが可能となった。
人間自体を対象とする生物医学の技術は、人間の内的自然としての「身体」をも対象とし、その結果、生物医学的技術による身体への介入は病気の治療にとどまらなくなっている。遺伝子診断による病気の予防や、食生活や運動など生活習慣の改善が医学の対象となっているような事態である。これにより、いわば「人間」は特権的な地位から格下げされてしまった。つまり、近代的な権利主体としての人格の担い手というものから、バイオテクノロジーをはじめとする技術の対象となったのである。さらには、身体の一部であるはずの遺伝子については、バイオ産業における生産手段として、私的所有の対象とまでなっている。遺伝子をめぐる問題はもちろんのこと、「先端医療」と呼ばれる領域は、一般的に生殖技術や脳死など、さまざまな「価値観」にかかわる政治的・倫理的紛争をもたらしている。これらの質的変化を背景に、「生(バイオ)」という言葉も異なった意味でとらえざるをえない。
さらには「政治(ポリティクス)」という言葉も異なる意味を帯びてきた。政治とは古典的には、暴力の独占者としての国家と結びつけられた領域として定義されてきた。しかし現在では、より社会全体に拡散したタイプのネットワーク的な権力関係やミクロでの支配関係が存在する。このように、「生政治」としてフーコーが問題設定していたものを、こんにちの文脈にそって美馬氏が新たに定義しなおした言葉が「バイオポリティクス」である。それは、内的自然である身体性としての〈生〉が、生物医学的(バイオメディカル)な技術によって実質的に包摂されたという事態と、ライフスタイルとしての〈生〉が政治的なものとして再定義されたという事態の両者を含んでいるのである。